Arita 有田(1610頃ー現在)
 
 
 
 
色絵松竹梅花唐草文鉢(1670-1690年/延宝ー貞享年間)
 
直径:13.5cm、   銘無し       
 
 
下南河原山、窯ノ辻窯?柿右衛門窯?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この作品は、典型的な柿右衛門様式の鉢である。
素焼をした上に、轆轤ー型打ち成形を施し、釉薬から青み(鉄分)を取り除いた乳白手(ニゴシデ)に仕上げ、見込みに描かれた松の幹の青は、染付けが使えない為に上絵で描かれている。また内側口縁部には、南河原窯ノ辻窯で見られる花唐草文が描かれている。
外側面は緑で唐草を描き、全ての輪郭線は、鍋島が染付けなのに対して、黒で描かれている。
また高台に幾らか砂が付着しており、鞘の中で、ハマの上に載っていた砂が高台に付着したと考えられる。このような作品は、1680年頃のものまで存在を確認出来る。
 
南河原(なんがわら)地区には、上南河原山と下南河原山の二つの窯場がある。
17世紀中頃より下南河原山地区では、南河原窯ノ辻窯や柿右衛門窯、平床窯が操業していた。各窯は窯焼き名代札の交付を受けた「窯焼き」である。窯焼きとは、原料購入から焼成までを行う事業者に当たる。窯場は連房式の登り窯で、おそらく共同で使用し、各部屋は窯焼き名代札を持つ者が所有出来る。
発掘調査によって、これらの窯場から、本焼きまでの工程で生じる不良品を廃棄した陶片が多数出土したが、柿右衛門様式に見られる乳白手の素地(白磁)は、主に南河原窯ノ辻窯と、柿右衛門窯から出土した。
1670年頃から採算を度外視した、柿右衛門様式の作品は、これらの窯で生産されていたと考えられる。
轆轤の後、ひと手間掛けて型打ちすることで、組み物などの画一性を出し、高台付近の型打ちは、焼成時のひび割れを防ぐ効果もある。素焼をして鉄分を取り除いた釉薬を掛け、一点一点さやに入れて灰降りを防ぎ、中垂れを防ぐ為に、ハリと呼ばれる、数個の円錐状の小さな支えを持つ台の上に、素地は高台を下にして置かれて焼成された。
その為、支えの目跡は、他の有田磁器に比べて、数も少なく大きさも小さい。
また発掘調査から、(青みがかった)染め付け素地の作品(藍柿右衛門手)、染付け素地に染め付けと上絵の両方を施した作品が、同じ窯で同時に生産されていたと推測される。(当ギャラリー有田で掲載しています。)
 
これらの柿右衛門様式の磁器は輸出用で、オランダ東インド会社や、中国商人によってヨーロッパにもたらされた。
実はヨーロッパにおける柿右衛門様式の収集の分布を見ると幾分偏りがある。柿右衛門様式の作品は、ドイツやイギリスなどに多く、オランダには少ない。たとえばヴィーン窯と関わりの深いオーストリア領ネーデルランドの副総督(総督はマリア・テレジアで、その夫、フランツ・シュテファン(Franz Stephan von Lothringen)の弟である)ロートリンゲン公カール・アレクサンダー(Karl Alexander von Lothringen)のオランダ経由(実際にはブリュッセル)で収集した有田磁器は,今でもマリア・テレジアが彼の借金の肩代わりをしていた為に、彼の死後差し押さえられ、今もヴィーンの王宮に展示されているが、柿右衛門様式は全く無く、古伊万里様式の作品ばかりである。(アレクサンダーの古伊万里様式の作品を彼自身がヴィーン窯に写させたものが当ギャラリーに掲載されています)
勿論、個人の趣味の問題もあるが、大体同じ時期に収集したザクセンのアウグスト強王が柿右衛門磁器を多く収集していたことと比べると対称的である。
おそらくヨーロッパの王族は、オランダ経由の有田磁器はより高価なため、中国商人から自国の東インド会社の商館を経由したり、中東を経由して購入していたのではないかと思われる。それで中国人商人は、単価の高い柿右衛門様式の磁器を多く取り扱っていたのではないかと思われる。またこの傾向は、初期の磁器輸出における課税が、体積を基準に課税されていたと言う事情も影響している。逆にその後、価格を基準に課税する制度への転換が、柿右衛門様式の衰退の一因となった事は興味深い。
 
この作品に類似した作品が「柴田コレクション(Ⅴ)」作品90番に掲載されている。
 
 
 
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