東洋磁器のヨーロッパへの流入
 
ヨーロッパに中国の磁器が伝わったのは、14ー15世紀のことで、実際には16世紀になって、広く知られるようになった。当時は中国の明時代の染め付けの白磁が主流で、これらの磁器を所有したのは一部の王侯貴族や富裕層に限られ、その光を通す半透明の性質に多くの人々が魅了された。それ以前は宋の青磁はまだヨーロッパには知られておらず、13世紀の元の青磁を、幾つかマルコポーロがヴェネツィアにもたらしたに過ぎなかった。
 
磁器の本格的なヨーロッパへの輸入は、16世紀のポルトガルに始まる。海上大国となったポルトガルは1510年にインドのゴア、1511年にはマラッカを占領し、東方貿易の基地とした。その後1517年には中国、1543年には日本に達し、リスボンは東方貿易の一大拠点となった。またその東方貿易の主役となっていたのは主にユダヤ人コミュニティで、 彼らの多くはスペインから迫害を逃れてきた人々であった。そして更に北イタリア・ジェノヴァの金融業者がこれに出資し、財政面で支えていた。1578年、ポルトガル国王セバスティアンが、モロッコ遠征中に戦死すると、ポルトガルの王位継承者を巡って政局は混乱し、結局スペイン王フェリペ2世が王位継承権を主張し、1580年にフェリペ2世が国王となり、ポルトガルはスペインに併合され、リスボンはスペインの衛星都市となった。その後ユダヤ人への迫害が強まり、1589年頃には、ユダヤ人の多くはネーデルランドへと逃れて行き、次第に東方貿易も衰退傾向となった。またインド洋を中心に貿易権を独占しようとするポルトガルは、その維持費に多額の費用をかけ、反対にそれをすり抜ける貿易量が増える事で、徐々に香辛料等の価格は下落して行った。ポルトガルの東方貿易は、徐々に採算の合わない状況に陥り、自ら衰退の道を辿った。
そしてそれに代わって海上大国として台頭してきたのは、多くのユダヤ人がたどり着いた国、信仰の自由の認められていたオランダであった。
 
この時期ネーデルランドは、神聖ローマ帝国領で、自治権を持った17州よりなっていたが、16世紀の始め、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(=スペイン王カルロス1世)の時代にスペイン領となり、1555年、皇太子(後のフェリペ2世)に統治権が譲られた。そして翌年、彼がスペイン国王となると、宗教改革運動の弾圧が非常に強められた。ネーデルランド市民はスペインの圧政(宗教的、経済的側面で)に対して、独立と自由を求めて、長く苦しい闘争を始めた。1579年、プロテスタントの北部7州の間でユトレヒト同盟を結成した。この同盟では、信教の自由が保障されていた。迫害から逃れて来たユダヤ人の多くが、ネーデルランドのアムステルダムにやってきた理由は、このようなところにあった。1581年、北部7州は一方的にスペインからの独立を宣言し、ネーデルランド連邦共和国(オランダ共和国)となった。一方南部諸州とは完全に分裂し、この南部地域は、19世紀にベルギーを形成することになった。オランダは、スペインからの独立戦争の中、東方貿易を行うポルトガル船を襲うなど、海賊行為を繰り返し、やがて極東への貿易ルートを奪い獲った。
1588年、スペインの無敵艦隊はイギリスに大敗。1600年にはイギリスが東インド会社を設立し、東方貿易に乗り出した。徐々に東方貿易の主役が変わりつつあった。
1602年、オランダでも貿易会社14社が統合され、東インド会社を設立、この会社には全海域貿易独占権、条約の締結、戦争の遂行、要塞建設、貨幣鋳造など、独立国家並みの権限が与えられていた。1609年には、オランダは日本の平戸に商館を開設し貿易拠点とすると、1620年代には、ポルトガルやイギリスをインドネシアから排除し、香辛料貿易を独占し、オランダ重商主義の繁栄の基礎を築いた。
 
一方、東アジアでは後金のヌルハチ(1616年〜)より清が起こり、逆に明の政情は不安定化し、各地で反乱が起こるようになった。この時期は過渡期と呼ばれ、中国磁器のデザインも、それまでの画一的なデザインの染め付けから、自由なデザインに移行し、逆にコバルトの顔料の品質は低下した。そしてついに明朝は1644年に滅亡する。明の後、すかさず反乱分子を制圧し、故宮を占拠して政権を握ったのは清であった。
清は景徳鎮を再興し、それまでの染め付け磁器や赤絵や五彩に加えて、粉彩(琺瑯彩)などの新しい技術も開発し、再びヨーロッパッの東方貿易の主役に返り咲くには多くの時間を必要とはしなかった(桃色調のファミーユ・ローズ、緑色調のファミーユ・ヴェルディなどが流行した)。
実は17世紀に入ってその僅かな過渡期の間、オランダの東方貿易は、明の政権の不安定化に伴い、景徳鎮を始め多くの窯が操業出来ず、次第に磁器の生産量が減少していた為、発注量に見合った量が確保できなくなっていた。
しかしそのころ日本では、16世紀の豊臣秀吉による2度の大陸への出兵の際、朝鮮人の陶工(おそらく陶器職人)を日本へ連れ帰り、磁器の製作にあたらせ、その製法を普及させていた。そしてこの過渡期には、すでに磁器は有田を中心に本格的な量産体制に入っていた。オランダは、1637−1638年の島原の乱では幕府軍に加勢し、(ポルトガルが反乱軍の背後にあったからか?)、1641年にはマラッカをポルトガル(1640年にスペインから独立)から奪取すると、同年に平戸の商館を出島に移し、幕府との信頼も得て、日本との間に独占貿易を確立して行った。又、1646年には、有田では陶工の酒井田柿右衛門が、日本独自の赤絵を完成させると(景徳鎮から戦乱から逃れて来た中国人陶工が、有田に流入していたか?)、この柿右衛門様式の色絵磁器は、熱狂的にヨーロッパの市場に受け入れられ、特に王侯貴族の間でコレクションの対象として垂涎の的となった。
この当時、高価な渡来品である磁器の収集は、王侯貴族や富裕層のステイタスであり、各国の王は自分の宮殿に、磁器の部屋(Porcelain Room)を作り、その部屋の壁一面を、中国磁器や、伊万里磁器で埋め尽くした。このような部屋は、ルネサンスに生まれた宮廷における、スチューディオロと呼ばれる自分の書斎を、趣味の品で飾る習慣に由来し、この磁器室の磁器は、1点1点を際立たせて飾るのではなく、幾つかのの磁器の集まりが、全体として部屋を装飾することを常としていた。またその配置は、当時のバロック様式がそうであるように、左右対称であって、柿右衛門磁器等に見られる左右非対称の美意識を反影するものではなかった。またこの時代には、中国磁器と有田磁器との区別さえも良くできていなかった。しかしヨーロッパの上流社会における柿右衛門磁器の受容は、その後のロココ様式(左右非対称の美意識を受容した様式)の発展に大きな影響を与えた。 (第6回勉強会参照)
 
オランダは東インド会社を通じて大量の磁器をヨーロッパに持ち込み、莫大な利益をあげ、そしてついに1648年、三十年戦争(1618年に始まる、神聖ローマ帝国内での宗教戦争)の終結の際、ヴェストファーレン条約の中で、スイス連邦とともにオランダ共和国として、正式に独立を各国に認めさせた。
その後、カトリックで統一しようとしていた神聖ローマ帝国の支配力は極めて弱体化し、特にドイツの各領邦には完全な主権が認められるようになった。
実は(真正)硬質磁器をヨーロッパで始めて作る事に成功したマイセン窯も、こうした領邦の一つ、ザクセンの王立窯であった。
オランダは独立後1652年に、ピューリタン革命に成功したクロムウェルのイギリスとの間で、第1次英蘭戦争を戦うが、その際東インド会社の株は大暴落した。その為に、この会社に投資していた多くの投資家、画家のレンブラントらも破産した。また、第2次英蘭戦争は、マンハッタン島の領有を巡り、王政復古したチャールズ2世との間で1665年に戦われ、結局イギリス領となった(ニューアムステルダムからニューヨークへ名前が変更された)。
一方フランスでは1661年より、太陽王ルイ14世(1643年に即位)の親政が始まり、対外への強引な領土拡張路線が、第3次英蘭戦争を引き起こした。時代のモードは、東洋の影響を受けつつも、豪華絢爛なバロック芸術がもてはやされ、フランスのヴェルサイユ宮殿、ザクセンのツヴィンガー宮殿、それにヴィーンのシュンブルン宮殿など、代表的なバロック建築が建造された。
 
三度の英蘭戦争を経て、海上貿易の主導権は、徐々にオランダからイギリスに移り変わっていき、オランダの栄華にもかげりが見られるようになった。