1587年、トスカーナ大公国のトスカーナ大公・フランチェスコⅠ世・デ・メディチ(Francesco Ⅰ de Medici)が亡くなってから、イタリア半島では、真正磁器は元より、軟質磁器でさえも長い間制作されていなかった。
しかしもともと中部イタリアを中心にマジョリカ焼きは盛んに造られていた。
フランチェスコ・ヴェッツィ(Francesco Vezzi)は、1651年にヴェネツィアとトリエステの間に位置するウディネ(Udine)で生まれた。
彼は短期間の訓練の後に金細工師となったが、金融商取引に興味が有り、早くからヴェネチアに出て、その傑出した起業家としての才能を発揮し、直ぐに大きな国際的な宝石商『ドラゴ・ドーロ・ア・リアルト(del Drago d’Oro a Rialto)』のオーナーとなった。それから更に彼は国際的なビジネスを広げて、ヨーロッパ中で有名な人物となった。
1710年、100,000デュカートの共和国への供出金と引き換えに「パラティーノ伯爵(Conte Palatino)」の称号を得て、彼の兄弟のジウゼッぺ(Giuseppe)とヴィンチェンツォ(Vincenzo)、 更には子供や孫とともに、ヴェネツィア貴族の仲間入りをした。
彼が如何にして磁器製造に興味を抱いたかは定かではないが、1719年、彼は商用でヴィーンを旅していた。そこで前年の1718年に操業を開始した、デュ・パキエ窯の視察を行い、マイセン出身の絵付け・金彩師のクリストフ・コンラット・フンガー(Christoph Konrad Hunger)と知り合った。
ヴィーンでデュ・パキエとパートナーであったフンガーは、磁器の製作工程を会得していなかったが、その製造にカオリンが必要な事は理解していた。
ヴェッツィが、どの程度の報酬を提示したかは定かではないが、デュ・パキエに失望していたフンガーにとって、ヴィーンを去る事には何の抵抗も無かっただろう。
1720年、フンガーの引き抜きに成功したヴェッツィは、フンガーの口添えでザクセンのシュノアの土を手に入れる事に成功する。
そして同年にヨーロッパで3番目、イタリアで初の真正磁器窯が設立された。
経営は息子のジョヴァンニ・ヴェッツィ(Giovanni Vezzi)に委ねられた。
共和国のサポートは無く、フランチェスコが私財を投じ、50,000デュカートまでの出資を約束したが、当初の工場はヴェネツィアの南、ジュデッカ(Giudecca)に建設され、1722年までに30,000デュカートが費やされた。
この年にフンガーも経営陣の一人として名を連ねている。
磁器の焼成に成功した後は、フンガーの絵付け金彩の知識が役立ち、またフランチェスコは ヴィーンの帰りにアウクスブルクに立寄り、恐らくそこのハウス・マーラーと絵付けの契約をしていた。
こうしてヴェッツィ窯は素晴らしい絵付け作品を制作し、現在200点弱の作品が遺されている。
ところで18世紀初頭のヴェネツィアは、南ドイツとの経済的な関係が強く、オーストリアのヴィーンとも関係が深かった。ヴェッツィ窯の2年前に操業を始めたヴィーン窯の職人は、アウクスブルクの芸術家パウル・デッカー(Paul Decker)、ヨハン・レオナルト・アイスラー(Johann Leonard Eysler)、マーヒン・エンゲルプレヒト(Marchin Engelbrecht)らの影響を強く受けていた。
その為に、当時のアウクスブルクの文化、工芸の影響から、バロック様式で、東洋の影響を強く受けた銀器などの形状が、ヴィーン窯、ヴェッツィ窯、更には1737年に開窯するトスカーナのドッチア窯でも強く反影された。
更にヴェッツィ窯のカオリンは、ヴィーンと同じザクセンのシュノアの土で、両者の作品は区別しにくい。窯印や上絵付けの発色などで区別される。
この窯で多い作品はティーポットである。一般に窯印はアイアン・レッドで「Venezia」と底に書かれている。また釉下に彫刻師のマークが刻まれていることも多い。
1724年にヴェッツィ窯の工場は、ラグーン・カジン・デイ・スピリティ(Casin dei Spiriti)を見下ろす、ヴェネツィアの北、マドンナ・デッロルト(della Madonna dell’Orto)に移転した。 またサン・マルコ広場に特約店も数店出来た。
その為にこの年にフランチェスコは、更に多くの投資を強いられた。
この時点でこの年老いた伯爵が、底なし沼に足を踏み入れている事は、誰の目にも明らかだった。実際に負債額は返済不能と見られており、このことで経営陣の間で口論が絶えなかった。
1724年の内にとうとう関係が決裂し、フンガーは ヴェネツィアを去り、結局1727年に金彩師としてマイセンに舞い戻った。その時にヴェッツィ窯の情報を伝え、ザクセンは1727年からヴェッツィ窯へのカオリンの供給を差し止める。
カオリンの供給を止められたヴェッツィ窯は、この年にヴェネト州トレット(Tretto)の土を発見する(この土は1737年開窯のドッチア窯でも使用され、更に1758年開窯のヘヴェルケ窯でも使用される事になる)。
しかし結局経営状況が悪化し、この年に閉窯した。
<フンガーは後にマイセンを再び出て、1729年から1733年までスウェーデンのストックホルムで磁器製造を試み、1737年にはデンマークのコパンハーゲンの宮廷で同じ試みをするがいずれも失敗に終わる。1742年に一時ヴィーンに戻り、1744年に再びザンクト・ペテルブルクの宮廷に招待され,1748年までの間に、新しい製作所の立ち上げに協力した。>
Riferimento
Giovanni Vezzi e le sue porcellane da Luca Melegati
La Porcellana Di Venezia Nel ‘700 Vezzi, Hevelcke, Cozzi a cura di Filippo Pedrocco
Le porcellane veneziane di Germiniano e Vincenzo Cozzi da Francesco Stazzi
Italian Porcelain by Francesco Stazzi
Italian Porcelain by Arthur Lane
Eighteen Century Italian Porcelain by Clarele Corbeiller
Dictionary of European Porcelain by Ludwig Danckert