<ウェースプ(WEESP)系諸窯>
❶ WEESP/ 1764-1771
❷ OUDE LOOSDRECHT/ 1771-1784
❸ AMSTEL(OUDE AMSTEL)/ 1784-1799 / 1800-1809
❹ NIEUWER AMSTEL/ 1809-1814
1757年、ピエ(Pye)とクライクシャンク(Cruikshank)とアイルランド人アルカニストのマッカーシー(D.McCarthy)はアムステルダムに陶磁器製作のための工場を設立した。しかしこの工場は、結局ファイアンスしか制作できずに倒産する。この工場を、1764年、グロイスフェルト−ディーペンブロイク( Gronsfeld-Diepenbroick)伯爵が買い取り、近郊のウェースプ(Weesp)に工場を移転させた。
そしてドレスデンから磁器職人を呼び寄せたが、その多くは7年戦争で放り出された者たち、例えばアルカニストのニコラウス・パウル(Nikolaus Paul)らであった。
また操業開始よりこの窯では、技術的には高品質の硬質磁器が生産出来た為、グロンスフェルトはセーブルとの合併を基本路線とし、セーブルに合併を申し入れていた。しかしながらセーブルは、戦争や他のリスクを懸念し、フランス国内で硬質磁器の磁土が見つかるまでは、軟質磁器の生産を継続する方針を選んだ。その為結局この合併は成立しなかった。
一方ウェースプは、間もなく経営難に陥った。その理由の一つは、オランダに極めて大量の日本磁器が流入した事と、もう一つは職人達が故郷のドイツへ帰りだした事にあった。ニコラウス・パウルは、1766年にフルダに移動し、替わりにフランス人のピコー(F.Picot)が技術主任になった。
そしてカルヴァン派伝道師ヨハネス・デ・モル(Johannes de Mol(Mol))が、この工 場を気に入り、1771年にこれを買収することとなる。