Haag(1776-1790)(decorater)           Benelux
1772年、ウィーン出身のドレスデンの商人アントン・リンカー(Anton Lyncker )の息子のヨハン・フランツ・リンカー(Johann Frantz Lyncker) が、ハーグ(Haag)にテキスタイルや  磁器を売る店舗を開業。父のアントンは、ハーグで事業ができるように市民権を1776年に取得。また彼は、自分は磁器工場を始めたいという事を申し出て、ハーグの統治者である ウィリアム5世(WilliamⅤ)と、市議会の協力をも取り付けた。 同年ハーグ窯は開業するが、実際には磁器の製造は行われず、他社からの磁器を装飾してそれを販売していた。 ハーグ工房跡には、上絵付けの為のマッフル窯が残されていたが、素地を焼成した痕跡は全く残っていない。議会に対して磁器工場を偽装していたと思われる。
素地の供給元は、主にドイツの アンスバッハ(Ansbach)窯や、ベルギー(当時フランス)のドォールニックDoornik(仏トゥルネTournai)窯 から、未装飾の磁器を購入していた。
したがって、ハーグ工房の作品の素地は、アンスバッハなら硬質磁器であり、トゥルネならば軟質磁器という事になる。
トゥルネ窯は、ハーグ工房にノーマークの白磁か、僅かな染め付け装飾の入った白磁(関税が安い)を輸出し、ハーグ工房ではその釉上にハーグの紋章の魚をくわえたコウノトリの自社のマークを入れて販売した。一方アンスバッハ窯では、ノーマークの白磁、釉下に “A”のマークを入れた白磁を輸出して、ハーグ工房で釉上にコウノトリの マークを入れる場合だけでなく、恐らく予めアンスバッハの工場で釉下にコウノトリのマークを入れて ハーグ工房に輸出したケースまであった。特にアンスバッハ窯はハーグ工房への輸出への依存度が高かった。
このような事が、 ハーグ工房での磁器生産が、実際行われていたかのような誤解に繋がったようである。1781年、アントンの死後、息子が後を 継ぐが、1790年に破産し、売却されて結局閉窯となった。