The Ceramic Production In the Venezian Republic
In the 17thC.-18thC.
(17世紀から18世紀におけるヴェネツィア共和国での陶磁器生産)
 
<はじめに>
この時代、ヴェネツィアの陶磁器メーカーは、市場の需要の変化に常に対応を迫られていた。
15世紀にはスペイン風の陶器の流行、16世紀には中国磁器、17世紀には東インド会社やレヴァント経由で流入した古伊万里、更にその写しのデルフト陶器など、需要に合わせて技術革新が行われ、常に外国製品との競争にさらされていた。
そもそも磁器と言う概念も、カオリンを含むか含まないかが問題では無く、磁器の特徴、すなわち色は純白か?透光性はあるか?硬いか?吸水性はどうかと言う事が問題であった。したがって磁器メーカーの競争相手は必ずしも磁器では無く、ファイアンスや場合によっては白く塗られたミルクガラスが競争相手となった。このような理由から、需要に適合するならば敢えて磁器では無く、ファイアンスの生産に力を入れる事も少なく無かった。事実、ヴェネツィアに限らず、ドイツやスイス、フランスの諸窯も、磁器と並行してマヨリカ陶器、ファイアンスを生産している。
このトピックスでは、ヴェネツィアにおいて、陶器メーカーがどのように変遷したか、政府との関係などを時代を追って見て行きたいと思います。
 
 
 
ルネサンス期よりイタリアの都市国家では、同業組合であるギルドが重要な役割を演じて来た。
8世紀頃よりアドリア海の上に都市国家を建設した、古代ローマ人の末裔であるヴェネツィア共和国においても、それは同様であった。
ヴェネツィアにおける陶器生産業者は、ボッカレリ(Boccaleri)と呼ばれていた。
 
ヴェネツィアにおける陶器の普及は、14世紀前半まで遡る事ができる。それ以前は、台所や食器は、木製であったり銅や錫、ガラスなどが利用されていた。
建物の外装などに用いられていたテラコッタ(インゴッビオingobbio)は、吸水性が高かったが、やがて釉薬が掛けられたり、彩色されたり、引っ掻いて装飾したり(グラフィットgraffito)、技術的な革新のおかげで、徐々にお皿やボウルに利用される様になった。14世紀に生産される様になったこの様な陶器は、メッザマイヨリカ(Mezzamaiolica)と呼ばれた。
 
15世紀には、低品質のグラフィット陶器が盛んにスペインのヴァレンシアから輸入された。これはスペイン産陶器が、レヴァント地域や、ヨーロッパ大陸との貿易の際に、定評のある品物であったからで、共和国は唯一この陶器の輸入を許可し、その販売権を一手に共和国が管理し、ボッカレリのギルドにその特権を与えていた。
ギルドのメンバーは、メッザマイヨリカをヴァレンシアから輸入し、直接自分たちでサンマルコ広場で販売する特権を与えられていた。
したがって彼ら自身の工房も、サンマルコ広場周辺に集中していたが、排煙などが問題になり、次第に17世紀には島の西の端に移動して行った。
そしてこの陶器職人のギルドは、徐々に陶器の生産だけでなく、輸入販売の小売店の要素も加わり、ムラノ島に隔離したガラスメーカー程の、国家経済に対する重要性は失われて行った。
しかし16世紀になって、マヨリカ(Majolica)陶器がヴェネツィアにもたらされると、この陶器産業の構造が著しくに変容した。
マヨリカ陶器は、既に13世紀には中部イタリア(ウルビノUrbino、ファエンツァFaenza)で生産されていたが、ヴェネツィアには15世紀末までメッザマイヨリカが主流になっていた。
1504年から1509年まで、ヴェネツィア共和国がファエンツァを併合した事をきっかけに、ロマーニャ地方から多くのマヨリカ陶器が輸入され、ボッカレリのギルドも、マヨリカ陶器の生産を強いられる様になった。
当初ヴェネツィア製のマヨリカ陶器は、青の単色で装飾され、ベレッティーナ(berrettina)と呼ばれていたが、16世紀の後半には、多色の装飾も出来る様になった。
この多色装飾のマヨリカ陶器は、極東との貿易増加で各国宮廷の垂涎の的であった中国磁器を模倣して装飾され、人気があった。
この16世紀のヴェネツィアのマヨリカ陶器の黄金期の間、職人は本島に隔離されていたが、16世紀の終わり頃から、ヴェネツィアや外国で修行した職人によって、ヴェネツィア共和国内の大陸側のパデュア(Padua)、ヴェローナ(Verona)、トレヴィソ(Treviso)などでも工房が設立され、マヨリカ陶器が生産される様になった。
しかし同じ時期に、ファエンツァから白いマヨリカ陶器、ラテジーニ(latesini)が普及し出すと、多くのボッカレリはその模倣に失敗し、法的に禁止されているにも拘わらず、ラテジーニのヴェネツィアへの輸入販売を妨げる事は困難であった。
結果的にヴェネツィアでも大陸側でもボッカレリは、変化した新しい需要へ対応出来なくなった。更に1630年から流行したペストはヴェネツィアの人口を3分の1に減らし、ボッカレリが徐々に衰退すると、1665年、共和国は外国からの陶器の輸入規制を撤廃する布告をし、そのかわりボッカレリにはそれを販売する特権を与えた。
やがてヴェネツィアのボッカレリは職人的要素が無くなり、小売店のギルドに変容していった。
不可逆的に衰退して行くボッカレリのギルドは、最終的に1745年に消滅した。
 
しかしギルドが衰退する一方で、ギルドの外で単独企業が共和国より特権を得て、マヨリカ陶器の生産、輸出販売に乗り出すようになった。
それがバッサーノ(Bassano)のマナルディ(Manardis)家である。
マナルディは、1669年にラテジーニの生産、販売の特権を得て、バッサーノにマヨルカ陶器の工場を設立する。バッサーノには、マヨルカ陶器の為の赤土や白土の原料が豊富で、東西南北に河川が流れており、その水運で近郊のアジアゴ(Asiago)高原からの燃料となる木材の輸送や、商品のヴェネツィアへの運搬が可能であった。 更に河の水力によって、原料の土を粉彩する事も出来た。
熟練した職人は、今や輸入販売人に転向したボッカレリより潤沢に供給され、それまでの培われた技能や、伝統的デザインも継承された。
マナルディ家は、基は兵士の出自で、1610年まではバッサーノの民兵をしていた。1650年前後に市議会に進出したオッタヴィアーノ・マナルディ(Ottaviano Manardi)は、婚姻や不動産投資で財産を築いた。1644年に彼が亡くなると、息子のフランチェスコ(Francesco)は、ヴェネツィア貴族で政府の要職に就くジローラモ・カッペッロ(Girolamo Cappello)から491デュカート借りて、バッサーノに陶器の工房を設立した。カペッロはバッサーノに土地と研削機を所有していた。マナルディは、カペッロのバッサーノでの管財人で、カペッロはマナルディに住居と原料を研削する機械をリースした。
地方都市レヴェルを超える多額のヴェネツィア貴族への投資は、税務当局の干渉を避け、特権や免除の得る為に行われた。
その後フランチェスコはロマーノ(Romano)地方からより白い土を購入し、1660年の終わりにはパデュア、ファエンツァ、ロディから上絵の顔料の調合のできる職人を雇って、メッザマイヨリカからマヨリカ陶器への転換に成功した。
そして1669年、フランチェスコの3人の息子オッタヴィアーノ(Ottaviano)、スフォルツァ(Sforza)、ゾルジ(Zorzi)が、共和国よりラテジーニに関する特権を付与された。