ドッチア窯とトスカーナ大公国大公と、ナポリ王との関係
(The Relation:Doccia and the Grand Duke of Toscany & the King of Naples)
 
 
 
第1期(1747−1757)
トスカーナ大公との関係:1737年に大公となったフランチェスコ・ステファーノ(Francesco Stefano)は、ドッチア窯にトスカーナ大公国内での磁器の独占製造権を与えたが、彼自身がDoccia窯に対して発注した記録は残っていない。
 
ナポリとの関係:ナポリはオーストリアの支配の後、1734年ブルボン朝カルロス7世(CarlosⅦ)が統治したが、彼は1738年に、ザクセンのアウグスト強王の息子(ポーランド王アウグスト3世)の娘マリア・アマリーア・クリスティーナ(Maria Amalia Christina)を妻に迎える。嫁入りの際、多数のマイセン磁器が贈られた。またカルロス7世(CarlosⅦ)は、ドッチア窯のアンライター(Anreiter)の引き抜き等も画策したが失敗し、結局1743年、カポディモンテ(Capodimonte)に軟質磁器ではあるが、王室の窯を設立する。
カポディモンテ窯とドッチア窯は、徳化窯写しの梅のレリーフ装飾の作品など、類似した作風が見られるが、特に1744年にカポディモンテ窯が生み出した、’Neapolitan Manner’のハンドルは、1770年前後にドッチア窯でも使われる様になった。
1759年、スペイン王フェルナンド・カルロス3世(Fernando CarlosⅢ)となり、ナポリを退くが、その際カポディモンテ窯をそっくりそのままスペインに移転し、マドリッド郊外のブエン・レティーロ(Buen Retiro)で磁器の制作を続けた。
 
その後、ナポリ王には、カルロス3世の三男、フェルディナンド4世(FerdinandoⅣ)が後を継ぐが、彼は後にカポディモンテ窯の再興を目指し、1771年、Royal villa of Porticiに王立の窯を新たに設立した。翌年、王宮内に窯を移動させてナポリ(Napoli)窯として操業を開始した。
この窯とドッチア窯は、第2期以降、密接な関係になっていく。
 
 
 
第2期(1758−1791)
トスカーナ大公との関係:神聖ローマ帝国皇帝フランチェスコ・ステファーノが、1765年亡くなると、その次男のピエトロ・レオポルド(Pietro Leopoldo)がトスカーナ大公となった。彼はフィレンツエの産業振興を熱心に行い、ドッチア窯にも、ピッティ宮殿や自分の邸宅用に、多くの日用品の磁器を注文した。この時期に盛んに作られた’Flower Porcelain ‘と言われる作品が、グアルダローバ・ジェネラーレ(Guardaroba Generale)(問屋のような役割か?)という所に一旦集められ、必要に応じて各邸宅に納められた。このような多色の’Flower Porcelain’は、1815年まで非常に頻回に宮廷から注文された。
1790年、マリア・テレジア(Maria Theresia)の長男の神聖ローマ帝国皇帝である、ヨーゼフ1世(JosephⅠ)が亡くなると、1791年レオポルド大公はヴィーンに戻り神聖ローマ帝国皇帝職を継ぐ事になり、トスカーナ大公は、レオポルドの次男のフェルディナンド3世(FerdinandoⅢ)が後を継いだ。同年彼は、ナポリ王フェルディナンド4世の娘マリア・ルイーザ(Maria Luisa)と結婚している。
 
ナポリとの関係:1759年にナポリ王となったフェルディナンド4世は、トスカーナ大公レオポルドの妹、マリア・カロリーナ・ルイーザ(Maria Carolina Luisa)と結婚する。(これを祝して、ルイ15世よりセーヴル窯の食器セットが贈られている)
その為にフィレンツエとナポリの関係は密接になる。1785年、ナポリ王はフィレンツエを訪問するが、この時にドッチア窯も訪問し、ナポリ窯に影響を与える(ナポリ窯の浅浮き彫り装飾は、ドッチア窯の一部の作品の影響かもしれない)。
またこの後、ロレンツォ・ジノリ(Lorenzo Ginori)もナポリを訪問しており、この時に当時発掘が進んでいたエルコラーノの発掘品を描いた本、『エルコラーノの遺物』の最初の2巻を持ち帰る。この本に描かれたポンペイ風の装飾が、後のドッチア窯の新古典様式の作品に使用されている。
フェルディナンド4世は、1791年、娘のマリア・ルイーザと、レオポルド大公の後を継いだフェルディナンド3世との結婚の為に、再度フィレンツェを訪問している。同年、ロレンツォ・ジノリが急死し、ドッチア窯も第3期を迎える事になる。
 
第3期(1792−1837)
トスカーナ大公との関係:1791年レオポルド大公の後を継いだ次男のフェルディナンド3世は、父親と同じ様にフィレンツェの改革に励み、ドッチア窯に多くの日用品の発注をした。紫色の単色の風景画や、多色の風景画が描かれ、特に18世紀末に多く見られる、’Slice Egg Border’が、縁取り模様として描かれた。
 
ナポリとの関係:1791年、娘の結婚のためフェルディナンド4世がフィレンツェを訪れ、両国の関係は更に深まり、ドッチア窯の作品、特にフィギュアにその影響が現われる。また1790−1795年にかけて、ポンペイなどの遺跡から発掘された古代の彫刻を模した無釉のビスコッティ(Biscotti)が作られた。