Doccia(1737-Present)
 
circa 1750-1755
 
Tazzina con piattino a bassorilievo istoriato
歴史的浅浮き彫り装飾のカップ・ソーサー
Diametro :    cm              Altezza :    cm              Pasta : Porcellana dura  
直径        高さ          硬質磁器
Marca : Nessuna    
   無し
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
繊細な蔦の様なダブルハンドル、背の高いカップとお皿のセットは、浅い浮き彫り装飾(Low relief decoration=Basso relievo)が、大きな見所となっている。
釉薬の掛かった白磁で、形状からはコーヒーカップか、チョコレート用かもしれない。
 
このような浮き彫り(Relief)装飾の系譜は、古代エジプトまで遡る事が出来る。
古王国時代から壁画に描かれた浅浮き彫りは、王の業績や宗教的儀礼が描かれた。
特に新王国時代、紀元前14世紀にはアメンへテプ4世(Amenhotep IV)=イクナートン(Echnaton)によって芸術革命が起こり、浮き彫り装飾も壁面よりも低い位置に浮き彫りが彫り込まれる、埋没した浮き彫り(Sunk relief)が生み出された。
一方その系譜を受け継いだ古代ギリシアでは、浅浮き彫り(Low relief)に加えて、もっと浮き彫り面の高い、高浮き彫り(High relief)装飾が盛んに行われた。
(私には、以前訪れたイスタンブール考古学博物館所蔵のアレキサンダーの棺の装飾などが印象深い/アレキサンダー自身の亡骸は、プトレマイオスがエジプトに持ち込んでおり、この名称は余りに浮き彫りが見事なので付けられたものと思われる)
 
イタリア半島では、ラテン民族の先住民族であるエトルリア人が、地中海交易等を通じて、この古代ギリシア文明の影響を受け、コリント産の輸入陶器を模倣した赤絵式や黒絵式の陶器や、エトルリア人の代名詞ともなっている、細い線状(Filigree)の装飾を施した金製品を制作した。そして建物の鴨居(Lintel)や入り口には、高浮き彫り(High relief)装飾が施された。
その後イタリア半島に流入したローマ人は、このエトルリア人の文化を吸収し、特に中部から南部イタリアで両者は共存して生活していた。
磁器の装飾において、この様な浮き彫り装飾を最初に行ったのはトスカーナのこのドッチア窯だと思われる。
(但し同じ浮き彫りでも、バロック時代の最初期にマイセンを始め各窯で制作さた、徳化窯を模倣した梅の装飾の白磁の作品は、貼付けるもので、ここでは区別する。)
 
さてもう一度この作品を見てみると、浅浮き彫り装飾で、ギリシア神話のポセイドンを題材にして描いている。
ハンドルは繊細でロココ風だが、題材はすでに新古典主義に向っている。過渡期の作品ではないだろうか。
1748年にナポリの南、紀元1世紀にヴェスヴィオ火山の噴火で壊滅した、古代ポンペイの遺跡の発掘が本格化された。ルネサンス以来の古典ブームでヨーロッパは沸き上がります。
18世紀までのローマは、テベレ河の西岸、ヴァチカンを中心に繁栄していたが、東岸の古代ローマの遺跡は長い間、そのまま打ち捨てられていた。
しかしこのポンペイ発掘を契機に、古代ローマの遺跡発掘は本格化され、有名なフォロ・ロマーノは19世紀になって発掘が進み、徐々に東岸の古代遺跡の発掘が進み出した。
ルネサンスが新プラトン主義など、ギリシア文明の再興であったのに対して、新古典主義では、古代ローマ、特にポンペイ遺跡の装飾芸術が盛んに模倣された。
この作品はポンペイブームの1750−1755年頃の作品と考えられる。
 
但し注意が必要なのは、1759年にナポリのカポディモンテ窯がスペインのブエン・レティーロに移転し、その後を継いだフェルディナンドがナポリで再興した王立ナポリ窯が、この作品と類似した浮き彫り作品を制作しており、19世紀にその窯が閉窯し、ドッチア窯がその型を引き継いで王冠にNのマークを入れたモノを再生産している。
この場合、19世紀の作品では、彩色している事が多く、この様な高い形状のカップでは、高台が内側に傾いている事が多い。
逆に18世紀の作品の多くは、高台がやや外に開いている。