14世紀から17世紀にかけて繁栄したフィレンツェも、18世紀にはメディチ家の活力も衰え、イタリアの一つの小都市に過ぎなかった。ドッチア窯を起こしたカルロ・ジノーリ(Carlo Ginori)の父親ロレンツォは、羊毛、絹織物で成功した公爵家で、清朝康煕帝時代の磁器を収集していた。息子のカルロは、フィレンツェ議会議員のリーダーで、衰退して行くフィレンツェの地位を回復させる為には、硬質磁器の生産が必要であると考え、1735年より各地の土を集めて研究し、高温を作り出す巨大レンズの製作にも成功していた。1737年、メディチ家のジアン・ガストーネ(Gian Gastone)が急逝すると、メディチ家は断絶し、トスカーナ大公国のトスカーナ大公には、ロレーヌ・ハプスブルクのフランチェスコ・ステファーノ(Francesco Stefano)(後のフランツ1世で、1736年にマリア・テレジア(Maria Theresia)と結婚)が継承する事となった。
同年フィレンツェ議会はヴィーンに居る大公に使節団を派遣したが、そのリーダーとしてカルロはヴィーンを訪問した。その時カルロは、大公に対し硬質磁器の生産の独占権(1741年に取得)を求め、またヴィーンのデュ・パキエ(Du Paquier)窯も視察した。そしてヴィーンの絵付け師カール・ヴェンデリン・アンライター・フォン・ツィアンフェルト(Carl  Wendelin Anreiter von Zirnfeld)と、その息子、また技術者であるジオルジオ・デッレ・トッリ(Giorgio delle Torri)をフィレンツェに連れ帰った。
1737年、ジノリ家の16世紀に建設した別荘のある、フィレンツェ近郊のドッチア(Doccia)(現、セスト・フィオレンティーナ)に、磁器工場を建設した。
 
 
第1期(1737ー1757年)
1742年までは実験的な生産が続けられ、(1727年の) ヴェッツィ窯(Vezzi)と同じ、トレット(Tretto)の土を使用していた。
この第1期に作られた作品は、ごく初期では徳化窯風の梅の浮き彫りの白磁が多く作られ、不純物が多く、クラックが入る事も多かった。
1740年以降は、形状はバロック様式の銀器を模し、マイセンや、デュ・パキエ窯の影響も強かった。装飾は草花などの自然主義的絵付けが多く、東洋の草花や、17世紀に大流行したチューリップをモチーフにした(Tulipano)食器やフランドルの銅版画の写し、トルコ風人物を描いた作品が制作された。
また16世紀のフランチェスコ・デ・メディチ(Francesco de Medici)時代のメディチ磁器の文様を染付けで、スタンピーノ(Stampino)と呼ばれるステンシル(Stencil)を用いて描く作品が多く作られた。このステンシルよって、未熟な職人でも比較的良好な絵付けをする事ができるようになった。
この時代の顔料は、単色画ではヴィーン風の赤や緋色、紫などが使われた(赤い鶏装飾:A galli rossi )。多色画では清朝景徳鎮のファミーユ・ヴェルディ(Famille Verde)風に、緑、赤、紫、黄、薄青色などが使われた。
またイタリア伝統の浅浮き彫り装飾のギリシア神話風プラーク(Basso Rilievo Istoriato)や、専任の銀細工工房を設けて、嗅ぎタバコ入れ、宝石箱や、ギャラントリー(仏ーGalanterie、小装飾品)が盛んに制作された。
 主な絵付け師 
ヨハン・カール・ヴェンデリン・アンライター・フォン・ツィアンフェルト
(Johann Carl Wendelin Anreiter von Zirnfeld)(父)
アントン・ヴェンデリン・アンライター・フォン・ツィアンフェルト
(Anton Wendelin Anreiter von Ziernfeld)(息子)
ジウゼッペ・ニンケリ(Giuseppe Nincheri)
ジウゼッペ・ロメイ(Giuseppe Romei)
 
フィグラでは、1745年からモニュメンタルな大型彫像が盛んに作られたが、そのモデルはフィレンツェの後期バロックのブロンズ作品で、マッシミリアーノ・ソルダニ・ベンツィ(Massimiliano Soldani Benzi)や、ジオヴァン・バティスタ・フォッジーニ(Giovan Battista Foggini)らで、彼らの作品の型(ピティ宮殿にあった、メディチ家の収集したWax やPlasterを購入したり譲り受けたりしたもの)から制作したり、ルネサンス期のヤコポ・リゴッツィ(Jacopo Ligozzi)のテンペラ画などを元にして制作された。
小磁器像では、カッチーナ(Caccina、争う動物の小群像)や、カラモージ(Caramogi、グロテスクな小人像)が制作された。
 主な原型師
ガスパロ・ブルスキ(Gasparo Bruschi)
 【後期バロック彫刻家ジローラモ・ティッチアーティ(Girolamo Ticciati)の弟子、特徴は、アーモンドアイと言われる大きな瞳、輪郭を茶色で描いた眉、頬の赤みをピンクのドットで表す事、額から鼻のラインが直線になっている事である。】
 
またこの時期にカルロは「デザインと絵画の為の優秀な学校」や、「彫刻研究所」を設立し、工房全体の技術レヴェルの向上に努めた。このような教育システムがこの窯の長期に渡る発展に繋がった。
ドッチア窯では、磁器と並行して、イタリアの伝統芸である、マジョリカ焼きの制作も行われた。フランスのムスティエ窯を模したものが制作されていた。
 
 
第2期(1758ー1791年)
1758年にカルロが急逝し、ロレンツォ(Lorenzo Ginori)が後を継ぎ、素地の改良を加えた。それはルッカ近郊のモンテカルロ(Montecarlo)の土から作られ、灰色がかった素地だが、とても安価だった。そしてこの上にマジョリカ焼きの技法を応用して、酸化錫を含む釉薬を掛ける事により、純白の外観が得られた。1765年に完成したこの素地は、’ masso bastardo ‘ と呼ばれた。
またこの他にロレンツォは、従来のヴェネト州トレット産の土から作る素地も1755年に改良し、これを ‘ masso nuovo ‘ と呼び、更に1773年には、フランス産の土をブレンドして ‘ masso di Francia ‘という素地も開発した。
第2期ドッチア窯の特徴は、このような様々な素地を使って、作る磁器の種類によって、素地の組成を調整する所にあった。
この時期の作品は、第1期のテュリパーノや、ア・ガッリ・ロッシに加えて、Flower Porcelainと言われるブーケやフルーツの装飾がロココ風の器に描かれた。また辺縁装飾は、マイセン窯の ノイ・ブランデンシュタイン模様(Neu-Brandensteinmuster)や、アルト・オツィーア模様(Alt-Oziermuster)が模倣された。
 主な絵付け師
ヤコポ・ファンチウラッチ(Jacopo Fanciullacci)
ジョヴァン・バティスタ・ファンチウラッチ(Giovan BattistaFanciullacci)
ジオヴァッキオ・リガッチ(Giovacchio Rigacci)
 
フィグラでは、第1期のような高コストな大型彫刻は制作されず、ロココ風の田園生活を描いたものや、ヴェネツィアのヨーゼフ・ヴァグナー(Joseph Wagner)の銅版画を元にした小磁器像が主に制作された。
 主な原型師
ガスパロ・ブルスキ(Gasparo Bruschi)(叔父)
ジウゼッペ・ブルスキ(Giuseppe Bruschi)(甥)
ジウゼッペ・エッテル(Giuseppe Ettel)
 
 
第3期以降(1792ー1837)
1791年、ロレンツォが急死し、レオポルド・ジノーリ・リスチ(Leopoldo Ginori Lisci)が後を継いだが、フランス革命、ナポレオン戦争と、フランスの影響が強くなった。レオポルドは、フランスのセーヴル窯を訪問し、素地や装飾の知識を得て帰国し、1803年にはセーヴルと同じ、フランスのリモージュ産の土を導入し、新しい素地の開発に成功する。
作品はやはりフランスの影響が強く、アンピール様式が主流となった。
 主な絵付け師
フランチェスコ・ジウゼッペ・デ・ジェルマイン(Francesco Giuseppe de Germain)【ジュネーヴより来た。皿やカップに風景画を描いた】
アブラハム・コンスタンティン(Abraham Constantin)【ジュネーヴより来た。油彩や、フレスコ画を写した】
 
 
政治的動乱:1792年から始まったフランス革命戦争は、1799年にはトスカーナへのフランスの侵略に至り、トスカーナ大公フェルディナンド3世(Ferdinando Ⅲ di Toscana)は、ザルツブルクへ逃亡する。
ナポレオンの傀儡政権のもと、1801年、エトルリア王国が成立し、パルマ・ブルボン家よりロドヴィコ1世(Ludovico I di Borbone)が即位するが、その後彼はすぐに急死し、未亡人のマリア・ルイーザ(Maria Luisa di Borbone-Spagna)がその後を継いだ。この当時のドッチア窯は、セーヴル窯の補充品の制作等も手がけており、セーヴル窯と類似した作品が見られる。
1807年、エトルリア王国は消滅し、フランスの属国として、トスカーナ大公国は復活する。ナポレオンの妹、エリーザ・ボナパルテ・バチオッキ(Elisa Bonaparte Baciocchi)が大公となる。1810年、再びナポリ王フェルディナンド4世(Ferdinando IV di Napoli)がフィレンツェを訪問している。1814年ナポレオンは失脚し、再びトスカーナ大公フェルディナンド3世がフィレンツェに帰還する。1837年、カルロ・レオポルト・リスチ(Carlo Leopoldo Lisci)が亡くなり、ドッチア窯の第3期は終わる。
 
(なお第1期から、第3期まで、トスカーナ大公、ナポリ王との関係の詳細   は Italyのページ、同名のトピックスを参照して下さい)
 
その後、トスカーナ大公国はトスカーナ大公レオポルド2世(LeopoldoⅡ)、フェルディナンド4世(FerdinandoⅣ)と継承するが、1860年、国民投票によってサルデーニャ王国に併合される事となり、トスカーナ大公国は消滅する。
 
 
 
 
ドッチア窯は、1896年ミラノのリチャード製陶社と合併し、リチャード・ジノリ社となった。(2013年1月に倒産)。
ドッチア窯は、リチャード社と合併するまでに5代に渡り創業者の家系が後を継ぐが、この期間を5つに分類する事ができる。
 
第1期 カルロ・ジノーリ(Carlo Ginori)    1737ー1757
第2期 ロレンツォ・ジノーリ(Lorenzo Ginori)    1758ー1791
第3期 カルロ・レオポルド・ジノーリ・リスチ(Carlo Leopoldo Lisci    Ginori)
                         1792ー1837
第4期 ロレンツォⅡ世・ジノーリ・リスチ(Lorenzo Ginori Lisci)
                               1838ー1878
第5期 カルロ・ベネデット・ジノーリ・リスチ(Carlo Benedetto Ginori  
    Lischi )                        1879ー1896
 
 
 
 
 
 
 
 
Doccia(1737-Present)                           Italy