1735年、ナポリ王となったブルボン家カルロ7世(Carlo Ⅶ)は、1738年、ザクセンのアウグスト強王の孫娘マリア・アマリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン(Maria Amalia Christina von Sachsen)と結婚する。その輿入れの際、多くのマイセン磁器が宮廷に持ち込まれた。カルロ7世は磁器製造への興味を持ち、王立の磁器窯を設立させようと決心した。
好条件を提示して、フィレンツェのドッチア窯や、ヴィーン窯の職人を引き抜こうとしたが失敗し、結局王立造幣局の科学者である、ベルギー人のアルカニスト、リヴィオ・オッタヴィオ・シェパーズ(Livio Ottavio Schepers)と息子のガエターノ(Gaetano)に、磁器製造の実験的研究を委ねた。王宮の隣接した場所に実験施設を建設し、王と王妃は頻回に実験の成果を見に訪れた。
そして1743年、リヴィオ・オッタヴィオ・シェパーズが軟質磁器の素地の開発に成功する。しかしその素地はまだ未完成で、父と対立する息子のガエターノが更に完全な素地を1744年に完成させた。
新たな磁器製造施設は、カポディモンテ公園の一角にあった、放棄された警備主任の建物を、 宮廷建築家のフェルディナンド・サンフェリーチェ(Ferdinando Sanfelice)が改築し、磁器製造所に造り変えた。更に従業員の居住施設も併設され、磁器製造技術の漏洩を恐れて、従業員はこの公園内に隔離された。
こうしてナポリ王立の軟質磁器窯(フリット磁器)、カポディモンテ窯が設立された。
このカポディモンテ窯では、軟質磁器ではあるが、王室の厳選して選ばれた優秀なアーティトにより、優れた作品が制作された。
ピアチェンツァ出身のパルマで宮廷宝石商兼ミニチュアリストをしていた、絵付け師で貴石研磨師(Pietra Dure=貴石を使ったモザイクの制作者)のジオヴァン二・カゼーリ(Giovanni Caselli)の監督のもと、1745年には彫刻アカデミー(Accademia del modello)が設立され、原型師主任にはジウゼッペ・グリッチ(Giuseppe Gricci)が就任した。実は彼こそがこの王立軟質磁器窯の大成功の原動力であった。彼は1738年にフィレンツェからタペストリー職人や、ピエテュラ・デューレの職人と共にナポリにやって来た。彼の制作する彫像は、ナポリ湾の日常に見られる情景や、漁師をモチーフにしたり、イタリア喜劇・コメディアデアルテ(Commedia dell’Arte)の登場人物などをモデルとしていた。
また彼は後にガエターノ・シェパーズの妹と結婚しており、このカポディモンテ窯は、アルカニストのガエターノ、絵付け師のカゼーリ、そして原型師のグリッチの3人の連係によって、素晴らしい作品の数々を創り出していった。
(リヴィオ・オッタヴィオ・シェパーズは、息子のガエターノにとって、無責任で、時々酒に酔っては暴力を振るう父親であったが、最終的には解雇された)
主な原型師
ジウゼッペ・グリッチ(Giuseppe Gricci)(前述)
ステファーノ・グリッチ(Stefano Gricci)(ジウゼッペの弟)
アンブロジオ・ディ・ジオルジーオ(Ambrogio di Giorgio)(花の原型師)
バッティスタ・ディ・バッティスタ(Battista di Battista)
主な絵付け師
ジオヴァン二・カゼーリ(Giovanni Caselli)(前述)
ヨハネス・ジギスムント・フィッシャー(Johannes Sigismund Fischer)
(ザクセン出身で、ヴィーンからレノーヴェを渡り歩いた)
クリスティアン・アドラー(Christian Adler)
(ザクセン出身でヴィーンから来た)
轆轤師
ジウゼッペ・グロッシ(Giuseppe Grossi)(ジェノア出身)
しかし興隆を極めつつ有ったカポディモンテ窯ではあるが、1759年、スペイン王ブルボン朝フェルナンド6世(FernandoⅥ)が亡くなり、カルロ7世がナポリの王位を、三男のフェルディナンド4世(FerdinandoⅣ)に譲り、自分はスペイン王カルロス3世(CarlosⅢ)として即位した為に、カポディモンテ窯は王と共に、設備、原料、職人まで、そっくりカラベル船でスペインのマドリッド郊外のブエン・レティーロ(Buen Retiro)に移され、カポディモンテ窯自体は廃棄されてしまった。