18世紀の初頭、次々と民間の軟質磁器窯が設立されるが、フランスの財務大臣の弟の ジャン・ルイ・オリー・デュ・フリュヴィー(Jean-Louis Orry de Fulvy)は、1738年より ルイ15世(LouisⅩⅤ)より磁器の製造許可と、マイセン風の装飾、装飾に金の使用や人物像を描く認可を得て、放棄されていた王の所有するヴァンセンヌ(Vincenne)城内に、軟質磁器の工場を作った。
彼の叔父はフランス東インド会社に携わっており、中国磁器に精通していた。
また当時すでに操業していたシャンティーイ窯で白い素地への改良に成功したクルード・アンベール.ジェラン(Claude-Humbert Gerin)が、ロベールとジル・デュボア兄弟(Robert et Gilles Dubois)と共にシャンティーイを離れ、1740年よりヴァンセンヌ窯を訪れた。彼らは城内で磁器製造の研究を重ねたが、1744年までは磁器の生産に成功しなかった。ジェランは助手のフランソワ・グラヴァン(François Gravant)にその秘法を教えており、グラヴァンが研究の成功を約束した為、ジェランは1743年にヴァンセンヌを去る事になった。
グラヴァンの実験的な磁器生産は、1745年にようやく成功する。
同年にシャルル・アダム(Charles Adam)(silent partnerであった)の名の下に合資会社が作られ、ルイ15世から20年間の磁器の製造販売の認可を受ける。
1745年、エチオール夫人(Madame d’Etiolles)が、ルイ15世の愛妾となり、ポンパデュール侯爵(Marquise de Pompadour)の称号を得ると、彼女と王の後援のもと、フランスで最高のスタッフが集められた。
まずパリアカデミーから化学監督にジャン・エロー(Jean Hellor)が就任した。
技術総監督に王室金細工師にのジャン・クルード・デュプレシー(Jean-Claude Duplessis)、装飾監督のジャン・ジャック.バシェリー(Jean-Jacques Bachelier)、彫像監督のエティエンヌ・モウリス・ファルコネ(Etienne-Maurice Falconet)、絵付け監督のフランソワ・ブーシェ(François Boucher)ら、錚々たるメンバーが名前を連ねた。
1751年にオリー・デュ・フリュヴィーが亡くなると、エロワ・ブリチャール(Eloi Brichard)が新しい会社を設立した。国王が25%の株を保有し、「フランス王立磁器工場」(Manufacture Royale de la Porcelaine de France)を名乗るようになった。
1754年には、国王の命で、ヴァンセンヌ窯以外での金彩、多色の装飾が禁止され、単色のみの装飾しか出来なくなった。しかしそれほどこの命令は遵守されなかった。
磁器の販路としては、パリのサントノレ通りなどに店を持ち、独占的に上流階級向けの装飾品を扱う、マーシャン・メルシー(marchands-mercies)にしか卸す事は出来なかった。彼らはヴァンセンヌ窯より購入した磁器に、金属の枠をはめたり、家具に磁器板をはめ込んだり、他の工芸品としばしば組み合わせて、顧客のニーズに応えていた。
当時最も有力なマーシャン・メルシーの一つが、「オウ・シャグラン・デュ・テュルキー」(’ Au Chagrin du Turquie ‘)を経営するラザール・デュヴォウ(Lazare Duvaux)であった。デュヴォウの店内は、様々な家具や、漆器、ブロンズ製品、中国絵画、中国磁器などで溢れていた。
デュヴォウの販売記録にヴァンセンヌ磁器が最初に登場するのは1748年で、1748年から1759年の顧客リストには、ルイ15世やポンパデュール侯爵夫人、マリー・ジョセフ・デュ・サックス(Marie-Josèphe de Saxe)(アウグスト強王の孫娘で皇太子ドンファンの妻)らが名を連ねている。