<軟質磁器の時代>
デンマークで初めて磁器製作所が設立されたのは、公式には1755年、軟質磁器からであった。
その製作所は、フレデリック5世(Frederik den V)の要請により、ブラテュロン(Blue Tower/Blåtårn)と呼ばれるデンマーク王宮のコブンハヴン( København )城内にある塔内に設置された。
しかしデンマークでの磁器製造に関する試みは、それよりも前にマイセンから来た二人の職人によって既に始められていた。一人はヨハン・クリスティアン・ルーデュヴィッヒ・フォン・ルエッケ(Johann Christian Ludwig von Luecke)で、彼は1728年からマイセンで原型師主任を務め、1739年から1750年まではザクセンの宮廷彫刻家を務めていた。そして1750年から1752年までヴィーン窯に渡り、1752年から1754年の間、コペンハーゲンで磁器製造を試行していた。
そしてもう一人はヨハン・ゴットリープ・メールホーン(Johann Gottlieb Mehlhorn)で、マイセンの絵付け師、ヨハン・ゴットフリート・メールホーン(Johann Gottfried Mehlhorn)の兄弟に当たる。彼は1754年から1762年までここで働いている。
当時マイセンでは絵付け師と他の職人との間の給料の格差が問題化しており、メールホーンはそういう中で、半ばそそのかされてデンマークにやって来た。
しかし彼らは結局硬質磁器を作る事が出来ず、フレデリック5世の望むようなマイセン磁器を模倣する様なモノは、何も作れなかった。
更に1753年、イギリスから(恐らくスコットランド出身の)デニス・マッカーシー(Denis McCarthy)が招聘されたが、1年も経たないうちに居なくなった。ただ彼のサインの入ったフレデリック5世の肖像のレリーフが、ローゼンボリ(Rosenborg)宮殿に1点残っている。
更に1760年、シャンティーイ窯からヴァンセンヌ窯と渡り歩いた、フランス人のルイ・フルニェ(Louis Fournier)がマネージャーに就任すると、6年間でセーヴル磁器を模倣した軟質磁器の製造においてある程度の成功を収めた。
フルニェと、原型師助手のデンマーク人ヨハネス・ヴィーデヴェルト(Johannes Wiedewelt)の制作した作品は、当時興隆を極め、ヨーロッパ中を席巻していたフランス王室窯、セーヴル磁器の造形や装飾の影響を強く受けていた。
因みに、1758年にフランス王室より、七年戦争の中立維持を求めて、緑のグラウンドカラーの軟質磁器のセーヴル窯のディナーセットが、フレデリック5世に贈られている。
 
この軟質磁器の時代の窯印は、カーヴしたFに数字の5、『F5』と入れられていた。
これはフレデリック5世を表しているとも、フルニェのFとも言われているが、この時期の作品は、セーヴル磁器の影響に加えて、フュルステンバーク窯の影響も強く受けている。それはフレデリック5世の二人目の妃であるユリアネ・マリー・ブラウンシュヴァイク・フォン・ヴォルフェンヴュッテル(Juliane Marie von Braunschweig-Wolfenbüttel)が、フュルステンバーク窯(1747年〜)の 創始者である、ブラウンシュヴァイク公カール1世(Herzog Karl Ⅰ von Braunschweig)の姉であり、両者が密接な関係にあったからである。なお1763年には、フュルステンバーク窯の鉱山技術者であるヨハン・ゲオーク・フォン・ランゲン(Johann Georg von Langen)がコペンハーゲンに移籍していることも重要である。
(後の硬質磁器の時代に、この窯印が入れられていたなら、フュルステンバーク窯の作品との鑑別が極めて困難になっていたと思われる。)
 
1766年、フレデリック5世が亡くなり、クリスティアン7世(Christian VII)が王位を継承すると、フルニェはフランスへ戻り、ブラテュロンはその後、打ち捨てられた。
 
<硬質磁器の時代>
その後未亡人となったユリアネ・マリーの主導のもと、新たな磁器製造所が設立されたのは、1775年の事であった。その新工場の基盤を作ったのが、科学者のフランツ・ハインリッヒ・ミュラー(Frantz Heinrich Müller)である。
ミュラーは1732年、コペンハーゲンに生まれた。彼は1747年には薬局を営み、1759年にコペンハーゲン銀行造幣局の監督を任された。
彼はこの翌年に途絶える軟質磁器窯を継承し、硬質磁器窯を設立する事を目論んでいた。それで既に1765年からこの事業への出資者を捜していた。
しかし王位を継承した若いクリスティアン7世にとって、フレデリック5世の時代に多額の費用を浪費し、何の果実も得られなかった磁器製造への出資は、国家財政がひっ迫したこの時期とあっては、消極的にならざるを得なかった。
かくしてミュラーは、1752年よりブラテュロンで働いていたヨハン・ゲオーク・リヒター(Johann Georg Richter)と協力して硬質磁器の研究を始めた。
しかしミュラーらの研究は、早期にボーンホル(Bornholm)島のカオリン層を発見した事によって、急速に進展する。
1773年には高温で焼成した透過性のある磁器を数点、王室に贈り、1774年には前王妃のユリアネ・マリーに、新しい硬質磁器の工場の建設計画と、『プロトコールNo.1』の素地を提示した。
今や王よりも権力のある前王妃が、王に替わってクーマゲール(Købmagergade)の新工場に出資する事となった。
1775年、このミュラーの磁器製作所は、50年間のデンマークでの磁器製造の独占権を与えられた。また前女王の発案で、新しい窯印には『三つの波』が採用された。
 
硬質磁器窯として再スタートしたこの窯は、フルニェの軟質磁器の時代に続いて、このミュラーと、前女王の時代においても、フュルスンバーク窯の影響を強く受ける事ととなった。
1776年、フュルステンバーク窯出身のアントン・カール・ルプラウ(Anton Karl Luplau)が原型師兼アルカニストとしてこの窯に加入する。
彼は1765年からフュルステンバーク窯で原型師主任を務め、その後成形師に転向した後、独立原型師をしていた。
またその前年の1775年、マイセン窯からもドレスデンのデンマーク公使館の秘書官アウグスト・ヘニングス(August Hennings)を通して、5人の職人が移籍して来た。
しかしこの事はザクセンとデンマークとの外交問題に発展し、5人の内2人は説得されてマイセンに帰国した。残った3人の内の1人が、フリートリッヒ・アブラハム・シュレーゲル(Friedrich Abraham Schlegel)で、彼はマイセン窯の染付けの、ブラウゲリプトオーダーグラット(Blau Gerippt Oder Glatt)パターンを、ブルーフルーテッド(Blue-Fluted)としてこの窯で絵付けをしている。またこのパターン自体は、ルプラウが基本構造を作った言われている。(後に19世紀末に、アーノルド・クローがこのパターンを再興する。)
彼ら外国からの職人達は、確かに多くの先進した芸術的要素をこの窯にもたらしたが、この二人以外は大きな功績は無く、高給で契約し経営を圧迫する一因となっていた。
ミュラーはルプラウでさえ、デザインを考えたり、アルカニストとしての仕事しかせず、個々の作品の制作には携わらないにも拘わらず、その作品の制作費の一部を給料として得ている事を批判していた。
1779年、ミュラーの努力も虚しく、経営は全く改善せず、結局クリスティアン7世がこの窯を買いとり、名実共にこの窯は王立窯・ロイヤルコペンハーゲンとなった。
 
<様々な素地>
1775年にボーンホル島で磁土を発見したが、この磁土はカオリンの含有量が少なく、素地は極端に灰色を呈する。
その為1779年まではこの磁土に長石、石英を様々な配合で調合し、3種類の素地を使い分けしていた。下にその成分を提示すると、
 
❶プロトコールNo.Ⅰ/磁土37.5%、長石8.3%、石英54.2%
 
❷プロトコールNo.Ⅱ/磁土69.2%、長石15.4%、石英15.4%
 
❸プロトコールNo.Ⅲ/磁土39.2%、長石13.1%、石英47.7%
 
となる。
 
 
1779年よりフランスの影響より、素地の改良が行われた。
それはフランスのイエリエックス(Yrieix)産の良質の磁土を様々な割合で調合されたものであった。
この時代は、プロトコールNo.1の素地は継続して使用され、新たに二つの素地が追加された。下にその成分を提示すると、
 
❶プロトコールNoⅠ/上に表示
 
❷No.Ⅱ、Danish Clay/ボーンホル13.8% 、長石26.6%、石英22.3%、フランス産37.5%
 
❸No.Ⅲ、Virgin Clay/ボーンホル0%、長石25.8%、石英0%、フランス産74.2%
 
となる。
1794年までは、Danish Clayが最もシェアが多く、Virgin Clayは、最も白い素地で、石英を使わず、その為に焼成時の支えが難しく、しかも最も高温で焼成しなければならない。この素地は、金彩を施したような最も高級なディナーセットなどに使用された。
 
 
更に1794年にはミュラーによって新しい素地(=No.Ⅳ)が開発された。
 
❹No.Ⅳ/ボーンホル12.3%、長石25.5%、石英18.9%、フランス産43.3%
 
後にこのプロトコールⅣの素地がDanish Clay(〜1803年で使用中止)に替わって、シェアを増やして行く事となった。
 
(但し1812年から1815年の間は、イギリスとの関係が悪化し、海上封鎖された為にフランスからの磁土が底をつき、ボーンホルの磁土のみで制作された。その為にこの時代の素地が最も灰色がかっている。)
 
 
 
 
Reference
① Das Weisse Gold des Nordens  von Museum Schloss Fasanerie
② Royal Copenhagen by H.V.F. Winstone
③ Die Porzellanmanufaktur Fürstenberg Band 1  von Thomas Krueger
④ The book of Meissen by Robert E. Röntgen
 
 
 
 
 
 
 
København(1755-Nuværende)  Denmark