《ピエモンテでの磁器生産》
1720年にイタリアで初めて、ヴェネツィアのヴェッツィが硬質磁器の生産を始め、その10数年後になってようやく北イタリアでもその試みが始められた。
サヴォイア家(Casa Savoia)のお膝元、ピエモンテのトリノ(Torino)では、
1737年、ジオルジオ・ジアチント・ロセッティ(Giorgio Giacinto Rossetti)が
透過性のある磁器の実験的生産を始め、1743年にトリノ議会に試作品を提出したと言われる。1748年まで操業したが、現在遺る彼の磁器は、すべて軟質磁器である。窯印はTとRか、GとRのモノグラムが入れられた。
その後1765年になって、トリノ近郊のヴィスケ(Vische )で硬質磁器の生産が始まった。ピエモンテはアルプスを挟んでフランスと密接な関係があり、作風から素地までフランスの影響下にあった。この窯の創立者ヴィスケ伯・ルドヴィコ・ビラーゴ・ディ・ヴィスケ(Ludovico Birago di Vische)は、フランスのセーヴル窯のエティエンヌ・モウリス・ファルコネ(Étienne-Maurice Falconet)のフィギュアを真似て多くの作品を遺した。
窯印はWに三つ葉のクローヴァーが黒で入れられた。
しかし1768年にヴィスケ窯は経営不振で閉窯に追い込まれる。
《ヴィノーヴォ磁器の誕生》
1776年、ピエモンテを代表する磁器窯が誕生する。
それにはこの土地がフランスと密接な関係にある事が深く関わっている。
18世紀の後半、一人のフランス人がドイツでヨーゼフ・ヤーコプ・リングラーが行った様に、硬質磁器の製造技術を広めて行く事となる。
その人物とは当サイト、ストラスブールで登場する悪名高い男、ストラスブール窯2代目のポウル・アントワーヌ.アノン(Paul-Antoine Hannong)の三男、1761年にセーヴル窯に硬質磁器の製法を売り渡したピエール・アントワーヌ・アノン(Pierre-Antoine Hannong)である。
彼は1739年にストラスブールの陶磁家、アノン一家に三男として生まれ、1755年の16歳の時に一家と共にドイツのファルツに移り、フランケンタールの磁器工場で働き、1759年に父とともに故郷のストラスブールに帰還する。
翌年に父が亡くなり、引き継いだストラスブールとアグヌ(Haguenau)のファイアンス工場を経営するが失敗し、更に1761年に王立セーヴル窯に硬質磁器の製法、設備を売り渡してしまう(ただこの時期ではまだ、重要な原料であるカオリンはセーヴルでは入手出来なかっただろう。)
1762年に次男のジョセフ.アダム・アノン(Joseph Adam Hannong)がフランケンタールから戻り、ストラスブール窯を引き継ぎ、1768年からファイアンスと並行して硬質磁器の生産も始める。
その後ピエール・アントワーヌはアルザスを去り、1763年にパリのヴァンセンヌ(Vincennes)、1767年にヴォーシュル・セイヌ(Vaux-sur Seine)と磁器工場を設立し、1769年よりパリのフォヴール・サンドニ(Faubourg Saint-Denis)の磁器工場の立ち上げに、アルカニストとして参加し、1772年に硬質磁器製造に成功し、アルトワ公(Comte d'Artois)の後援の元、操業を開始している。
しかし1774年にピエール・アントワーヌはパリからも去り、このイタリアのピエモンテのヴィノーヴォへとやって来る。
1776年、ピエール・アントワーヌはビラーゴ侯(Marchese Birago )ジオヴァン二・ヴィットーリオ・ブローデル(Giovanni Vittorio Brodel)と共同で、サルディーニャ王でサヴォイア公ヴィットーリオ・アメーデオ3世( Vittorio Amedeo Ⅲ di Savoia)から硬質磁器製造の特許を取得し、ヴィノーヴォ城内に硬質磁器工場、ヴィノーヴォ窯を設立した。またその特権を示す為に窯印として『Vと+』の文字がすべての作品に入れられた。
又素地の品質を表す為の数字が入った作品も一部見られる。
この窯では硬質で白くやや黄色みのある素地が焼かれ、セーヴル窯や特にストラスブール窯の影響を強く受け、花束や薔薇の絵付けやピュースの単色による風景画、一部シノワズリも描かれた。
特に白磁のビスコッティ(biscotti)はヴァンセンヌ―セーヴル窯の原型師エティエンヌ・モーリス・ファルコネ(Étienne Maurice Falconet)の作品を直接模倣して製作された。(収集家からそれらを借り受けた)
1778年、ブローデルはピエール・アントワーヌと上手くいかなくなって窯を去り、単独でピエール・アントワーヌが操業を続けたが経営に失敗、彼自身も1779年にこの窯を去り、 サルディーニャ王でサヴォイア公ヴィットーリオ・アメーデオ3世は一度窯の閉鎖を決める。
しかしその後1780年、科学者として有名であったドクター・ヴィットーリオ・アメーデオ・ジオアネッティ(Medico Vittorio Amedeo Gioanetti)にこの窯は売却され、王は新ためてジオアネッティに磁器製造の許可を与えて後援した。
その後ピエール・アントワーヌはフランスに戻り、1785年にもう一度パリでヴァンセンヌ窯を立ち上げている。
一方ジオアネッティは、地元から磁器の原料を調達し、アノン時代の職人を引き継いで操業を開始した。
従って作風はやはりセーヴル、ストラスブール窯などのフランスの影響下にあったが、徐々に時代を反映して新古典主義の作風が主流になっていった。
1815年にジオアネッティが亡くなり、 1816年にジオヴァンニ・ロメッロ(Giovanni Lomello)がチーフ・ディレクターに就任すると、ヘルキュラネウムの遺物や、古代ローマをテーマにしたモチーフがビスクイットで制作された。
1820年、次ぎのチーフ・ディレクターにジオヴァンニ・ストッピーニ(Giovanni Stoppini)が就任してからは更に操業が難しくなり、結局1825年に閉窯し、工場の有った城は、トリノ大学に売却された。
Riferimento
① La porcellana in Piemonte(1737-1825) Andreina d’Agliano e Cristina Maritano
② Porcellane Italiane della collezione Lokar Andreina d’Agliano et al