1718年、オーストリアで帝国軍事官(an agent of the Imperial Council of War)をしていたオランダ人のクラウディウス・イノセンティウス・デュ・パキエ(Claudius Innocentius du Paquier)は、カール6世(CarlⅥ)より、1719年から25年間の磁器の独占製造許可を得て、マイセンから絵付け・金彩師のクリストフ・コンラット・フンガー(Christoph Konrad Hunger)(1717年)と、アルカニスト(化学者)のサミュエル・ステルツェル(Samuel Stölzel)(1719年)を引き抜き、ヴィーンに磁器工場を開設した。土はマイセンと同じ、ザクセン領内のアウエ(Aue)のハンス・シュノア(Hans Schnorr)の土を横流ししてもらい、ヨーロッパでマイセンに次いで、硬質磁器の焼成に成功した。(その為にデュ・パキエ期の一部の作品は、マイセン初期の作品と、カルシウムに富む組成成分が非常に酷似している。)
しかし1720年、会社の経営は悪く、ステルツェルは、給料の未払い等で愛想を尽かし、当時絵付けを担当し才能を開花させようとしていた、ヨハン・ゴレゴリウス・ヘロルト(Johann Gregorius Herold)を連れて、マイセンに舞い戻った。 またその際、ヴィーンの磁器工場の設備を滅茶滅茶に壊して去って行った。
<ヘロルトはザクセンのイエナ(Jena)の出身で、銅製品の細密なエナメル装飾などを手がけ、ストラスブールではシノワズリの写しを学び、更に絵の勉強の為にヴィーンを訪れていたところを、フンガーが磁器の絵付け師に転身させたと言われている>
フンガーも同年に間もなくヴィーンを去り、1720年にヴェネツィアでヴェッツィ(Vezzi)窯を立ち上げた後、1727年にマイセンに舞い戻っているが、染付けに適した土を探していたと嘘の報告をしている。
会社は大打撃を受けたが、もともと科学的知識に明るかったデュ・パキエは、自力で設備を再建し、素地の改良も続け、カオリンを含むパッサウ(Passau)産の土も使う様になり、磁器の生産を再開した(この土を発見したのはフンガーだと言われている)。
(マイセンではヴィーンから来たヘロルトが多彩色の技術をもたらし、1730年より純白の素地の開発にも成功した。またマイセンに舞い戻ったステルツェルが、ヴィーンへのシュノアの土の供給を止めなかった事は、予めパッサウの土の存在を知っていたのではないかと思われる。逆にフンガーはヴェッツィ窯を去った後マイセンに舞い戻り、シュノアの土のヴェッツィ窯への供給を停止させている。この事もありヴェッツィ窯は閉窯となった。)
この時期の作品は、マイセンを模倣した作品や(お互いに模倣しているが)、黒の単色装飾・シュヴァアツロット(Schwarzlot)や、金彩や紫で、ラウプ・ウント・バンデルヴェアク(Laup-und-Bandelwerk)装飾(インドの綿織物の装飾を源流にしたもの)を施したものや、バロック時代を反映し、東洋磁器のデザインも模倣されている。
しかし会社の経営は改善する事無く、1724年には、陶器生産をしているニュルンベルクの評議会の代表であるヴァルター(Dr.H.Walther)をヴィーンの工場に招待し、この窯を購入してニュアンベアクに工場を移す話を提案している。
そしてとうとう製造許可の期限の切れる1744年、デュ・パキエ自身が国への磁器工場の売却を申し出る。
1744年、マリア・テレジア(Maria Theresia)が買い取りを決め、ヴィーン窯は国営となり、デュ・パキエはチーフ・ディレクターに就任する。
(1750年に新しい素地の開発に成功したが、デュ・パキエは1751年に死去している。)