1744年、経営難を理由にデュ・パキエは国に会社を売却し、自分は総監督に就任する。その為、この時期デュ・パキエ期と同じデザインの作品が、しばらくの間引き続き制作されている。
窯印は、様々な色やスタンプで盾(Schild)のマークが入れられた。
1749年、ハンガリーのシュメルニッツ(Schmölnitz)でカオリンを豊富に含む土を発見し、1750年、国営ヴィーンは、新しい硬質の素地の開発に成功する。それを記念して、窯印は釉下彩で青のシールドマークに統一されるようになった(但しパッサウ産の土は継続して一部使われている)。
マリア・テレジアの好みも反影して、引き続き伊万里写しの作品や、ロココ様式の作品が多く作られた。ヨハン・ゴットフリート・クリンガー(Johann Gottfried Klinger)や、ヨハン・ジークムント・フィッシャー(Johann Siegmund Fischer)、フィリップ・エアンスト・シンドラー(Philipp Ernst Schindler)らの絵付け師や、ヨハン・ヨーゼフ・ニーダーマイアー(Johann Josef Niedermeyer)らの優れた原型師によって、優雅な貴族生活を題材にしたフィギュアが制作された。
しかし採算を度外視した素晴らしい作品が経営を圧迫し続け、1780年にマリア・テレジアが亡くなると、1784年に売りに出されたが買い手が付かず、結局リンツで綿織物業で成功していたコンラット・ゾアゲンタール(Konrad Sorgenthal)に、その後の経営が委ねられた。