1721年、シャルル・フランソワ・アノン(Charles François Hannong)とドイツ人のヨハン・ハインリッヒ・ヴァッケンフェルト(Johann Heinrich Wackenfeld)は、ストラスブールにファイアンスの工場を設立した。
しかし間もなくヴァッケンフェルトは工場を去り、アノンは単独オーナーとなった。その後アグヌ(Haguenau)に第2の工場を設立し、アノンは1732年、二人の息子にそれぞれ工場を譲り、自分は身を引いた。
ストラスブールの工場は、兄ポウル・アントワーヌ・アノン(Paul Antoine Hannong)に譲り、アグヌの工場は、弟バルタザール(Barthazar)に譲った。
1737年、バルタザールは、デュルラッハ(仏/デュルラッシュ)(Durlach)の工場を買収する為にアグヌの工場を兄に売却するが、結局その買収は失敗に終わる。
二つの工場の主となったポウルは、それまで高温で焼き付けていた上絵付けの技法(Grand Feu)を改良し、低温でもっと鮮やかな色彩が出せる技法(Petit Feu)を1748年に開発した。この技法には、qualité contournée とqualité fine の2種類の技法があった。前者は輪郭線を黒で描く平面的な絵付けで、後者は輪郭線を用いず、グラデーションをつけた高品質の絵付けであった。
(1749年にはヘフストから、絵付け師のアダム・フリートリッヒ・フォン・レーヴェンフィンク(Adam Friedrich von Löwenfink)が訪れ、ここで絵付けの研究をし、その生涯を終えた。)
更にポウルは硬質磁器の焼成にも挑戦する。1751年、彼はヨーゼフ・ヤーコプ・リングラー(Joseph Jakob Ringler)と共同でドイツ(おそらくパッサウ)からカオリンを輸入し、硬質磁器の焼成に成功し、1754年には量産する為の設備も整えた。
しかしその1754年に、ルイ15世からの詔勅が出される。それはヴァンセンヌ窯以外での金彩と多色の絵付けを禁ずると言うものだった。
ポウルは硬質磁器の設備を無駄にしない為の方策を考えた。そして1755年、プファルツ選帝侯、カール・テオドア(Karl Theodor)と交渉し、プファルツ領内での硬質磁器の生産と、そのサポートを求めた。その年の5月26日に契約が交わされ、ポウルの長男のカール(Karl)が、ハイデルベルクの北西20マイルに位置する村、フランケンタールに磁器の工場を建設した。
ストラスブールのファイアンス時代からの原型師のヨハン・ヴィルヘルム・ランツ(Johann Wilhelm Lanz)は、以前からの型と、新しい型をフランケンタール窯に持ち込んだ。もともと彼の作品は、暗く粗さの目立つ作品が多かったが、フランケンタールに移ってからは、明るく新鮮な作風に変化した。しかし初期のフランケンタールの作品は、ストラスブールの初期の作品と非常に鑑別が難しい。
1757年にカールが亡くなり、弟のジョセフ・アダム・アノン(Joseph Adam Hannong)が会社を引き継ぎ、プファルツの紋章であるライオンのマークが窯印になり、JAHのイニシャルが添えられるようになる(ポウルの時代にも一部使用されている)。
ポウルは、1759年にジョセフにフランケンタールを任せて、自分は末のピエール・アントワーヌ(Pierre-Antoine Hannong)を連れて、アルザスに戻り、ストラスブールとアグヌの工場に復帰する。しかし1760年、ポウルが死去すると、ピエール・アントワーヌが工場を引き継ぎ、ひき続きファイアンスの生産を継続する。
しかし1761年、冒険心に富むピエール・アントワーヌは、セーヴルと接触し、硬質磁器の製法を売り渡してしまう。(フランスではまだカオリンは発見されていない。)
一方フランケンタールのジョセフは、経営難に陥っていた。
商品の回転率を上げる為に、1760年にパリで作品の価格表を宣伝したが、他社との競合で値引きをした為に利益を減らし、採算が取れない状況に陥っていた。
1762年、とうとうプファルツ選帝侯カール・テオドアに会社を売却する事になった。ジョセフはその後、ストラスブールに戻り、そこで硬質磁器の生産を始める。
1762年、フランケンタール窯を買い取ったカール・テオドアは、窯印を自分のインシャルのCTに変更した。1770年以降はその下に、制作年の下二桁の数字をイニシャルと同じ青の釉下彩で書き入れた。
テクニカル・アドヴァイザーにアダム・ベルクドルト(Adam Bergdord)が就任し、Physical-Economic Society in Manheimが、化学的な技術開発の後援をした。
またカール・テオドアのマンハイムの宮廷彫刻家のフランツ・コンラット・リンク(Franz Conrad Linck)(1762−1766)、1758年からアノンの元で働いている元マイセンの原型師のヨハン・フリートリッヒ・リュック(Johann Friedrich Lück)(1758−1763) が、原型部門、デザイン部門の監督に就任した。
リンクの作品は、選帝侯好みの古典的な神や半神、英雄のフィギュアが多く、J.F.リュックは、フランス人ニコラ・ランクレ(Nicolas Lancret)の版画を元に、男女のペアーのダンスシーンなどのロココ風フィギュアなどを制作した。
1767年、カール・ゴットリープ・リュック(Karl Gottlieb Lück)(1758-1775)が原型師主任に就任し、小フィギュアを中心に制作された。彼の特徴的な作品は、奇妙な中国の建造物などの集団彫像で、豊かな想像力を発揮して制作されたものであった。
また1775年、ヘフストからフュルステンバークと渡り歩いて来た、フィギュアの成形師、花の絵付け師であり、アルカニストでもあるヨハン・ジモン・ファイルナー(Johann Simon Feylner)(1770−1798)が技術監督に就任すると、多くの重要な技術革新を行った。
彼は絵付けや焼成、素地の改良だけでは無く、新しい顔料を開発した。それはセーヴルで1753年に化学者エローが開発したトルコブルー(Bleu Céleste)と、黒の釉下彩(実際には黒に近い深い青)、盛り上げた金彩装飾(キャトル・クラー / à
quatre couleurs )等であった。
その結果フランケンタール窯は、この時代に最も先進していたセーヴル窯に比肩する程の品質を誇る窯となった。
更に新しい原型師に雇用されたのは、彫刻家のヨハン・ハインリッヒ・ダンネッカー(Johann Heinrich Dannecker)の弟子で、シュツットガルトからやって来た、ヨハン・アダム・バウアー(Johann Adam Bauer)(1777−1779)であった。
彼にはそれ程の秀でた才能は無かったが、古典的な作品の要素を組み合わせて、新しい集団彫像を制作した。
このように技術的にはセーヴルにも匹敵する程の品質に達したファルツの御用窯だが、経営的には非常に厳しい状況にあった。
フランスでは1766年にはセーヴルの独占に終止符が打たれ、パリを中心に数十社の磁器工房が開窯し、ドイツ国内でも競争は激しく、しかも著名な歴史家のヨハン・ヨアキム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann)の ‘ Ridicurous dolls’
の中の言葉を借りると、この時代「グループ・フィギュアの買い手を捜すのは極めて難しく、その為にフランケンタールの工場は、売れ残った商品で一杯であった」という状況であった。
そう言う状況にも拘わらず、1779年にヘフストから来た、ヨハン・ペーター・メルヒオア(Johann Peter Melchior)(1779-1793)が原型師として加入したが、彼はフィギュアよりむしろ多くの新古典様式の食器を制作した。
1780年代に入ると徐々に生産量は減少し、1774年に180人いた従業員も、1790年には70人になった。そして1790年代は、フランス革命戦争の為にほぼ操業停止状態で
最後の大きな注文は、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世(Emperor Leopold Ⅱ)(1790年即位)への戴冠式の為の食器セットであった。しかしその作品は、既に非常に品質の低いものであった。
1795年、フランス革命軍がプファルツ選帝侯領を占領すると、フランケンタール窯は、起業家のペーター・ファン・レークム(Peter van Recum)に売却された。
しかし戦局が逆転し、翌1796年には選帝侯が経営に参加できるようになった。
その後ナポレオンによりプファルツを含むライン川西岸一帯が占領されると、フランケンタール窯は国家の所有するものと宣言され、ペーターの正当な相続人であるヨハン・ネポムク・ファン・レークム(Johann Nepomuk van Recum)にリースされた。
この時期の作品は、既にある白磁に絵付けされたものや、ワトー(Watteau)やラクレ(Lacret)、ブーシェ(Boucher)、それにアウクスブルクのニルソン(Nilson)、ハーバーマン(Habermann)らの銅版画を元に制作された素晴らしい作品が作られた。
1800年にカール・テオドアが死去。ファン・レークムがリース契約を解除すると、後を継いだプファルツとバイエルンの選帝侯マクシミリアン4世(Maximillian Ⅳ)は、フランケンタール工場を閉鎖した。
何人かの職人(メルヒオアら)はミュンヘンのニンフェンブアク窯に移動し、在庫商品や設備は売却された。19世紀に入って、幾つかのモウルドがニンフェンブアク窯に買い取られたが、その為に今日でもそれらの復刻を制作する事が出来る。