Real Fabbrica Di Napoli  (1771-1834)             back
 
circa 1790
 
Busto di Silla (Caius Caesar Octavian Augustus)
シッラの胸像(カイウス・カエサル・オクタヴィアン・アウグストゥス)
 
Modellatore:Filippo Tagliolini
原型師:フィリッポ・タリオリーニ
Altezza: 20.0cm                                      Marca: Nessuna
高さ               マーク:なし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まるで大理石の様なビスコッティ(biscotti)で制作された胸像は、典型的な新古典主義の作品である。
そもそも新古典主義とは、紀元前84年にヴェスヴィオス(Vesuvios)火山の噴火に呑み込まれた、ローマ時代の古代都市、ポンペイ周辺地域での発掘に端を発した芸術的流行の事を指す。
中世からルネサンスにかけて、ローマの中心はテベレ川の西岸、聖ペテロの墓の上に建てられたサンピエトロ寺院のあるヴァティカンにあった。この時代、テベレ川の東岸の古代ローマの都は荒れ果てた野原になっていた。
その発掘が本格化するのは19世紀に入ってからであり、実は1748年のエルコラーノ(Ercolano)、即ち人口4000人の、ネアポリス(Neapolis)(ナポリ)近郊のリゾート地の遺跡発見と、そこから始まった発掘ブームのかなり後である。
つまりルネサンス(古典文化の再興)が東ローマ帝国の滅亡の後に起こったギリシア文化の流入であったのに対し、18世紀後半にヨーロッパを席巻したこの新古典主義ブームとは、ローマ文化、とりわけポンペイ周辺の遺跡の発掘品を契機としたローマ文化の再興であった。
このナポリ窯は、その新古典主義の発信地にあった窯であり、この作品は、正にそのエルコラーノの発掘品の再現である。
実はこの胸像は、エルコラーノのヘルクラネウム(Herculaneum)で発掘されたブロンズ製のローマ帝国初代皇帝、アウグストゥスの胸像を模したものである。
これと全く同じ作品が、フィレンツェのピッティ宮殿にも存在する。
またナポリ王室とトスカーナ大公国は、当時密接な関係に有り、このナポリ窯とフィレンツェのドッチア窯も非常に深い関係に有った。( ドッチア窯とトスカーナ大公国大公、ナポリ王との関係(The Relation:Doccia and the Grand Duke of Toscany & the King of Naples)を参照)
1759年にナポリ王カルロ7世の後を継いだフェルディナンド4世は、トスカーナ大公レオポルドの妹 、マリア・カロリーナ・ルイーザ(Maria Carolina Luisa)と結婚する。(これを祝して、ルイ15世よりセーヴル窯の食器セットが贈られている)
1785年、ナポリ王はフィレンツエを訪問するが、この時にドッチア窯も訪問し、ナポリ窯に影響を与える(ナポリ窯の浅浮き彫り装飾は、ドッチア窯の一部の作品の影響かもしれない)。
またこの後、ロレンツォ・ジノーリ(Lorenzo Ginori)もナポリを訪問しており、この時に当時発掘が進んでいたエルコラーノの発掘品を描いた本、『エルコラーノの遺物』の最初の2巻を持ち帰る。この本に描かれたポンペイ風の装飾が、後のドッチア窯の新古典様式の作品に使用されている。
1791年、 フェルディナンド4世は、 娘のマリア・ルイーザと、レオポルド大公の後を継いだトスカーナ大公フェルディナンド3世との結婚の為に、再度フィレンツェを訪問している。
(レオポルド大公は急逝した兄の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフⅠ世の後を継いで、ヴィーンで神聖ローマ帝国皇帝に就任した)
この時、この作品の様な、ヘルクラネウムのブロンズ像を写した多くのナポリ窯の作品が、贈り物としてピティ宮殿に持ち込まれた。
現在32体の作品がピティ宮殿に遺されているが、1795年のピティ宮殿の目録には、36体の胸像が記録されている。
またオリジナルのブロンズの胸像は、現在ナポリ国立考古学博物館に収蔵されている。