❶フランスで初めての軟質磁器窯は、ファイアンスメーカーとして有名なルーアン(Rouen)窯だった。
1673年、この窯のオーナーのエデュミ・プテュラ(Edme Poterat)は、国王からの事業の保護と、磁器を製造する特権を得た。しかしこの窯では、商業ベースに乗る様な軟質磁器の生産は出来なかった。幾つか遺っているこの窯の作品は、緑色調の釉薬に染付けの装飾で、デザインはこの窯のファイアンス作品を模倣している。
❷次に設立された軟質磁器窯は、やはり既にファイアンスメーカーとして操業していた、サン・クルー(Saint-Cloud)窯であった。この窯はオルレアン公(duc de Orléan)の庇護のもと、1690年代早くに軟質磁器製造の設備を整えた。
この窯の初期の作品には、クリーミーな白磁で、繊細な染付けや、銀器の器型に中国徳化窯(Dehua)の白磁を模倣した作品が多くみられる。その後軟質磁器の上絵付けにも成功している。
❸次の窯は、ルイ15世(Luis XV/1715-)の従兄のコンデ侯ブルボン公ルイ・アンリ(ルイ4世)(Louis Henri de Bourbon,Prince de Condé ; Louis Ⅳ )の庇護を受けて設立されたシャンティーイ窯(Chantilly)であった。
1725年、ブルボン公コンデ侯ルイ・アンリは、パリの北、シャンティーイ城の城内のプティ・シャンティーイ(Petit Chantilly)に、軟質磁器製作所を設立した。
職人はライヴァルのサン・クルー窯から引き抜き、1730年には土地と建物を買い取り、1735年には国王から、日本磁器を写した上絵付けをした磁器の製造の許可を得た。これによってこの窯では、日本や中国磁器、特に柿右衛門磁器を忠実にコピーした作品が数多く製作された。これらの作品は、コンデ侯自身のコレクションを元に製作されたものも多かった。
濁し出を写す為に、黄色味を帯びた酸化スズの釉薬を使用した軟質磁器は、他の軟質磁器と同じく、歩留まりが悪く、高コストであった。
1740年にルイ4世が亡くなり、その所持品目録には、様々なモデルの80点のシャンティーイ作品が記録されている。
その後この窯は、息子のブルボン公ルイ・ジョセフ(Louis Joseph de Bourbon)に、6,602リーヴルで購入された。
しかし1792年にイギリス人のクリストファー・ポッター(Christopher Potter)がこの窯を買収した。彼はパリのクルソル通り(Rue de Crussol)にも磁器工場を所有しており、結局1800年にこの窯の操業を止め、閉窯にしてしまう。
❹1735年、パリのシャロンヌ通り(Rue de Charonne)にフランソワ・バルバン(François Barbin)が陶器工場を建設し、そこで彼は実験的な軟質磁器の製作を始めた。1748年、 パリ市内に磁器工場の建設許可を得ようとするが得られず、その後ヴィレロワ公(Duc de Villeroy)がバルバンに磁器製造の特許を与え、自身の領内に工場を建設する事を認めた。その為工場は、ヴィレロワ公の居城に近い、メヌシー(Mennecy)村に建設され、軟質磁器の製造が開始された。
このメヌシー窯は、1750年のフランソワの死後、息子のジャン・バプティスト・バルバン(Jean Baptiste Barbin)に購入されて引き継がれたが、彼も1765年に亡くなり、その後軟質磁器のソウ(Sceaux)窯の原型師のシャルル・サンフォリアン・ジャック(Charles-Symphorien Jacques)と、絵付け師のジョセフ・ジュリアン(Joseph Jullien)が未亡人より購入し、パリの市場に近い、ブール・ラ・ライン(Bourg-la Reine)に移転された。
作品はフィギュアや、小物も多く、特にビスクィ(biscuit)の繊細な作品も作られた。ヴァンセンヌ窯を模倣したものが初期には多く作られた。