ヨーロッパに中国から磁器がもたらされたのは15世紀のこと。堅く丈夫で純白の焼き物は、透光性も備えていた。磁器はあっという間にヨーロッパ中を魅了し、『ホワイト・ゴールド』と呼ばれる様になった。
そもそも中世からのヨーロッパの焼き物は、ダマスカスから命からがら脱出したアブド・アッラフマーン1世(Abd al-Rahman Ⅰ)が、8世紀に樹立したイベリア半島のポスト・ウマヤッド(Post-Umayyad)朝(アル・アンダルースのウマヤッド朝)の焼き物の影響を強く受けている。首都コルドバを中心とするアル・アンダルースでは、イスラム諸国から伝来したラスター彩(鉛釉に銀、銅で絵付けしたもの)、更に磁器の様な白さを持つ錫釉陶器(ファイアンス)が盛んに作られ、13世紀にはそれまで鉛釉陶器しか作れなかったイタリア半島に鮮やかな色彩で彩られたマイヨリカ(Maijolica)陶器の技術をもたらした。
15世紀にギリシアの東ローマ帝国がオスマントルコによって滅ぼされ、フィレンツェを中心に、イタリア半島ではルネサンスが起こり、東方からの科学技術が流入する一方で、アフリカの金、アメリカ大陸からの金、続いて銀が大量にヨーロッパにもたらされた。
合理的なギリシア思想に啓発され、科学が目覚ましく発展し、磁器を模したそれらしき焼き物が、初めてヨーロッパで生み出されたのは、やはりフィレンツェであった。
1574年より、トスカーナ大公・フランチェスコⅠ世・デ・メディチ(Francesco Ⅰ de Medici)の命で、フィレンツェのピティ宮殿で研究が重ねられ、レヴァント人(恐らくフリット陶器に精通していたギリシアかトルコ人の技術者)の協力を得て、1575年、メディチ磁器の焼成に成功した。この磁器は白土、白泥、フリット(ガラス質)にワインの堆積物、塩を原料として焼成され、硬質磁器に必要な磁土(カオリン)を含んでいない、いわゆる軟質磁器であった。器型はストーンウェアや、金属器を模し、装飾は薄い染付けで輸入された中国磁器を模倣していた。しかしメディチ磁器は、1587年、大公の死と共に途絶え、イタリアでの磁器生産は、ヴィーンからの硬質磁器の技術を受け継いだヴェッツィ窯の、1720年開窯まで待つ事となる。
しかしこのイタリアでの技術革新は、アルプスの向うの国に継承され、後にドーヴァー海峡を渡り、イギリスまでにも及ぶ事になった。 
 
 
 
 
                                                                                                            
 
 
 
 
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フランス陶磁器/ヨーロッパ軟質磁器の流れ