シャンティーイ窯(Chantilly)は、ルイ15世(Louis ⅩⅤ/1715-)の従兄のコンデ侯ブルボン公ルイ・アンリ(ルイ4世)(Louis Henri de Bourbon,Prince de Condé : Louis Ⅳ)の庇護を受けてパリの北、シャンティーイ城に1725年に設立された。
この軟質磁器の製作所は、城内のプティ・シャンティーイ(Petit Chantilly)に作られた。ライヴァルのサン・クルー窯から職人を引き抜き、1730年には土地と建物を買い取り、サン・クルーから来た化学者シケル・シルー(Ciqaire Cirou)と、クルード・アンべール・ジェラン(Cloude Humbert Gérin)が軟質磁器の焼成に成功した。その素地はフリット磁器で、フリットは白砂75%、ソーダガラス25%から成り、そのフリット67%に、33%の泥灰岩を混合して作られたが、少なくとも当初は純白さに欠け、その為錫釉を掛けて白く見せていた。
1735年には国王から、日本磁器を写した上絵付けをした磁器を20年間製造する許可を得た。これによってこの窯では、日本磁器、特にコンデ侯所有の柿右衛門磁器を忠実に写した作品や、中国の風俗を著した本 ’Le Livre de Desseins Chinois ‘ by Jean-Antoine Fraisse (1735)、他ブルボン公の東洋のテキスタイル、漆器等のコレクションのモチーフを写した、様々なテーブルウェアや、トイレ用品(化粧道具などの事)を制作した。
しかし柿右衛門の濁し出を写す為に、このやや黄色みを帯びた酸化錫の釉薬を使用した軟質磁器は、他の軟質磁器と同じく歩留まりが悪く、特に高コストで、経営は厳しかった。
初期の作品は金彩、黒の顔料が無く(濃い茶色が黒の代用をしていた)、使われた顔料は、赤色(Fe)、紫がかった茶色(Mn)、薄い黄色、2種類の青色、2種類の緑色であった。金彩と黒の絵付けは、1752年以降の作品に見られる。
1740年にルイ4世が亡くなった時、その所有品の目録には、シャンティーイ窯の様々な作品モデル、80点が記録されている。
その後この窯を、ルイ4世の息子のブルボン公ルイ・ジョセフ(Louis Joseph de Bourbon)が6,602リーヴルで購入した。
そして1792年にイギリス人のクリストファー・ポッター(Christopher Potter)がこの窯を買収するが、彼はパリのクルソル通り(Rue de Crussol)にも磁器工場を所有しており、結局1800年にこの窯の操業を止め、閉窯となった。
1730年代の初期の従業員
シケイル・シルー(Ciquaire Cirou):総監督)(1725−1751)
デュボワ兄弟ー兄ロベール(Robert Dubois):陶芸家、アルカニスト
弟ジル(Gilles Dubois):陶芸家、装飾師
アントワーヌ・グレミ(Antoine Grémy):デルフト生まれの絵付け師
ピエール・ラノワ(Pierre Lannoy):原型師
アントワーヌ・フーシェ(Antoine Fauchet):原型師
マルグリット・デュイエ(Marguerite Douillet)
ルイ・グジョン(Louis Goujon):ルーアンから来た原型師主任
*1740年にブルボン公が亡くなり、叔父が後見人となって、4歳の幼少のルイ・ジョセフ・ド・ブルボン(Louis-Joseph de Bourbon)があとを継ぐと、デュボア兄弟ら幾人かの職人が流出しヴァンサンヌ窯の開窯にも関わった(そのため両者の作品に類似品が存在する)。
結局1745年まで新しい職人は入らなかった。
*シルーの亡くなる1750年以降、新しい段階を迎える。東洋のモチーフは1760年頃には姿を消し、西洋風の装飾が中心となり、ロココから新古典主義へと展開する。
素地も無色の鉛釉を使用するようになった。
ブケ・デュ・モンヴァリエ(Buquet de Montvallier)1751-1760)と
ルーシエール(de Roussiere):総監督(1751-1754)
ピエール・ペイラール(Pierre Peyrard):総監督(1760-1776)
ルイ・フランソワ・グラヴァン(Louis François Gravant):総監督(1776−1779)
グラヴァン夫人(Dame Gravant)(ルイの妻):総監督(1779−1781)
アントーム・ド・スルヴァール(Anthéaume de Surval):総監督(1781-1792)