テムズ川の南岸・サウスバンクは、多くの材木置き場とともに、石鹸工場や、砂糖工場や醸造所が設立され、18世紀には、イギリスの陶器生産の中心地となっていた。
ウェストミンスター橋の南にかかるランベス橋を渡るとランベス(Lambeth)村、更に南のヴォウクソール橋を渡るとヴォウクソール(Vauxhall)村に当たり、いずれも多くの陶器工場が17世紀後半から設立され、品質はともかく、庶民が使用する多種多様な日常品を大量に生産し、経営的にも大きな成功を納めていた。
これらの陶器メーカーで育った職人が、後にブリストル(Bristol)や、プリマス(Plymouth)、更に植民地時代のアメリカにまでその技術を広め、19世紀後半のランベスのドルトン(Doulton)窯の成功にまで、それは引き継がれている。
1751年6月、このヴォウクソール村に短命ではあったが、独創的な製品を生産する磁器工場が設立された。
地元で鉛釉陶器工場を経営していたジョン・サンダース(John Sanders)と、ロンドンのセント・ポール大聖堂で宝石商を営んでいたニコラス・クリスプ(Nicholas Crisp)によって設立された磁器工場で、ソウプストーン(Soapstone)を原料とするステアタイト磁器(軟質磁器)工場を、ヴォウクソール村のグラスハウス・ストリート(Glasshouse Street)に建設した。彼らはこの年にソウプストーンで磁器を製造する免許を取得し、また1752年には動力として水車を発注した事も分かっている。
工場の操業自体は、陶器工場を営んでいたサンダースが大きな役割を果たしたが、磁器の製造に関しては、それまで宝石商をやりながら化学的な知識も身につけていたクリスプの情熱がこのメーカーの原動力となっていた。
1764年に閉窯するまで、このメーカーは下記の様に三つの時代に分類されている。
①Early period(1751-1754)初期
②Middle period(1755-1759)中間期
③Late period(760-1764)後期
 
初期の作品は装飾的で、多色の絵付けがされており、多くは外部委託による装飾が行われていた。銀器の器型を応用した独創的な形状の花瓶や、フラワーポット、ソースボートが主力であった。特にソースボートは、20種類位以上のバリエーションがあった。
また釉薬は透明で、底や高台に気泡が時に見られた。また素地は透光性が良く、緑から青みがかった緑色に見える。これは窯の中で還元焼成になっている可能性が考えられる。
 
中間期に入ると、1755年に、操業からロンドンの磁器生産と装飾の経験を積んだ重要なベテラン職人のジョン・ボルトン(John Bolton)が引き抜かれた。
しかし同年にフィギュアや、磁器の装飾の職人として、ジョン・ベイコン(John Bacon)が入れ替わる様にクリスプに弟子入りした。
この時期はティーウェアが盛んに制作されたが、広範囲にブルーアンドホワイトの装飾も施された。また多色銅板転写や輪郭線の転写に多色装飾したものや、フィギュアも制作された。
釉薬は緑色か青みがかり、透光性は低下し、透光するとストロー・グリーン(Straw-green)になった。時代とともに窯のコンディションも悪くなり、やや茶色がかっていくのは、還元焼成から酸化焼成に移行したものと思われる。
 
 
後期では、クリスプの財政危機もあり、素地も装飾も次第に劣化して行った。
1758年にサンダースが亡くなり、クリスプは子供のウィリアム(William Sanders)と提携するが、1760年にソープストーンの使用免許が切れる。一部骨灰を使用したリン酸系の素地も確認されている。
釉薬は透明だが、初期に比べて粗造で、透光性は濃い濁った茶色に見える。
1762年頃にクリスプと、兄弟と姪は、東インド会社の従業員の年金基金の投資を任されたが、この投資に対して紛争が起こり、経営状態は悪化し、1763年に破産申請し、1764年5月31日に全ての在庫品が売却され閉窯となった。
 
その後も、クリスプの磁器製造への意欲は衰えず、1766年、デヴォン州のボヴェイ・トレイシー(Bovey Tracey)で新しい磁器工場を設立し、ヴォウクソール窯の原型師のトーマス・ハマースリー(Thomas Hammersley)と、絵付け師のジョン・ブリッタン(John Brittan)を引き連れて設立した。
しかし1767年、この二人は、クリスプの実験的な磁器製造に協力していた、プリマスのウィリアム・クックワーシー(William Cookworthy)の窯に移籍した。
この窯では、やはり独創的なブルーアンドホワイトのソースボートなどが造られたが、1774年にクリスプが亡くなり閉窯した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Vauxhall
England