ウースター窯は、1751年、ロンドンの北西部、セヴァーン川沿いの街、ウースターに設立された。正式名はウォースター・トンクィン・マニュファクチュァ(Worcester Tonquin Manufacture ) で、ドクター・ジョン・ウォール(Dr.John Wall)、ウィリアム・デイヴィス(William Davis )ら16人により設立された。
18世紀半ばのイギリスでは、フランス軟質磁器の流れを汲むチェルシー窯や、ダービー窯等のフリット磁器や、ボウ窯のようなボーンアッシュ(骨灰)を多く含む磁器などの軟質磁器窯が次々と設立されていた。
1749年、デルフトファイアンスの街ブリストルに、クエイカー教徒のベンジャミン・ルンド(Benjamin Lund)がコーンウォール(Corn Wall)のソープロックの採掘権を得て、銀行家のウィリアム・ミラー(William Miller )らとともにルンズ・ブリストル窯(Lund’s Bristol)を設立した。
ソープロック (Hydrated Magnesium Silicate) を含む実験的生産が繰り返された末に、ステアタイト磁器が生産される様になったが、その後すぐに経営に行き詰まり、1751年にこの技術、設備など全てをDr. Wall のパートナーのリチャード・ホールドシップ(Richard Holdship) に売却した。ルンドはその後、ウースターでも技術指導にあたった。
ルンズ・ブリストル窯では、銀器の器型に、デルフトファイアンスの川や人物像の中国写しの装飾を施したソーボート等が作られたが、その幾つかには、ブリストルのレリーフマークが付けられた。
草創期のウースター窯にとって、染付け磁器は、最も重要な製品であった。先行窯のブリストル窯では、ほぼ中国写しの染付け磁器しか生産されておらず、ウースター窯でも、この中国写しの染付け磁器が主に作られ、設立後40年間に作られた磁器の実に75%を占めていた。しかしロンドンを中心にコーヒーハウスが流行し、お茶を飲む習慣が普及すると、中国磁器よりも安価な国産の染め付け磁器に対する需要はますます高まっていった。もともとウースター窯では、元デルフトの絵付け師らによって、繊細な中国写しの染付け磁器が生産されていたが、需要の増大に生産が間に合わず、絵付け師の増員と、絵付け自体の簡略化が進み、1750年代の終わりには、銅板転写によるプリント技術が導入され、より安価で大量の染めけ磁器が作られる様になった。1770年よりのちはその傾向はより顕著で、染付け磁器の殆どは、銅板転写によるプリント装飾になった。
しかし18世紀の終わりには、流行の変化により染付け磁器はあまり売れなくなり、幾つかの磁器メーカーも、廃業に追い込まれることになった。