<ロンドンデコレイターの背景>
16世紀にポルトガルが独占していたインド洋経由の香辛料は、陸路からのヨーロッパへの流入が増え、価格が下落し、ポルトガルの東方貿易は衰退していった。
代わって17世紀に東方貿易の主役に躍り出たオランダは、お茶と共に、当時高価な明の磁器を、続いて日本の古伊万里をヨーロッパで売りさばいて、莫大な富を築いた。しかしその磁器も、清朝が興って安価な大量生産の磁器が出回ると、徐々に磁器の価格も下落して行くことになった。
イギリスでも東インド会社が1600年に設立されたが、その運営は民間の投資によって支えられ(フランスやオーストリアは国営であった)、1度の航海で、イギリス産羊毛製品などでスペインで金、銀を調達し、インドの綿製品、中国磁器などと売買して利益を膨らませて、数年後に本国に帰るものであった。
また会社の交易と別に、乗り組み員の個人の交易が認められ、2重構造になっており、安価な磁器は会社が扱い、利の多い高価な磁器は、乗り組み員個人の交易品として、イギリスに持ち帰られた。
17世紀の終わりには、まとまった量の中国磁器がイギリスにも流入し、1744年までは特に徳化窯(Dehua)の白磁(blanc de Chine)が厦門(アモイ)の港から船積みされ(梅レリーフのモノはチェルシー窯や、ボウ窯、大陸の諸窯でコピーされている)、並行して1720年代から景徳鎮製の染付けと共に、多くの無地の白磁が広東の港から船積みされ、ロンドンの市場を賑わせた。
一方17世紀よりロンドンではコーヒーハウスが次々に開店し、それはロンドン大火より更に加速して行った。また東インド会社への投資に成功したり、工業化によって富を得た、茶の習慣を楽しむような中産階級層が、18世紀には急速に拡大していった。
ロンドンデコレイターとは、これらの中国磁器(イギリス国内に磁器の生産技術が普及するまで)を仕入れて、その空白部分に装飾を加えて販売する絵付け工房であった。
ジェイムズ・ジャイルズ工房は、そのロンドン・デコレイターの一つであった。
<ジャイルズ工房の成り立ち>
ジェイムズ・ジャイルズ(James Giles)は、1718年、ロンドンに生まれた。
彼の祖父、エイブラハム(仏/アブラーム・ジル)・ジャイルズ(Abraham Giles)は、フランス人のユグノー(Huguenot)教徒(フランスのカルヴァン派)で、元はリール(Lille)の絹織物職人であったが、二人の息子(一人はジェイムズの父)と共に一家は、1685年のルイ14世のフォンテイヌブローの勅令によって、ユグノー戦争によって得たナントの勅令(1598年)による信仰の自由の権利が廃止されると、17世紀末に多くの同胞達と共にドーヴァー海峡を渡ってイギリスへ亡命した。そして1700年頃にイギリスに帰化したと考えられる。
ジェイムズの父ジェイムズ・ジャイルズ・シニア(James Giles senior)の職業は、良く分かっていないが、彼はウェスト・エンドのセント・ジャイルズ教区(Parish of St.Giles)の何処かに居住し、1737年以前のある時に、オックスフォード・ストリートの北側のセント・メリルボーン教区(Parish of St.Mary le Bone)に移り住んだ。 いずれも後にジェイムズが工房を開設するソーホー(Soho)のベーリック・ストリート(Berwick Steet)には程遠く無い場所である。当時ロンドン中心部から西に外れたこの地域は、移民も多いものの、中心部に比して広大な土地があり、新しい開発地域であった。
4つの資料によって、ジェイムズと父ジェイムズ・シニアは、`China Painter’ と記述されている。
ジェイムズの兄エイブラハム・ジャイルズ・ジュニア(Abraham Giles Junior)は、フィリップ・マーガス(Philip Margas)の会社で奉公していた記録があるが、この会社こそガラスの販売と共に、東インド会社から磁器を買い取り、それらに装飾を施して販売する事業を一手に行っていた会社である。
このような磁器の小売りを行う者を、当時は`Chinamen’ と呼んでいた。
1733年から7年間、ジェイムズはセント・マーティンス(St.Martins)のジョン・アーサー(John Arthur)という宝石商(小売店かメイカーかは不詳)に奉公した記録が残っている。これは意外ではあるが、18世紀の宝石商は、店内で金細工はもとより、おもちゃやお菓子まで売っていた。ましてや高価な磁器なら恐らく取り扱っていたと思われる。実際例えばチェルシー窯の創業者の一人であるチャールズ・グイン(Charles Gouyn)や、 ヴォクソール窯のニコラス・クリスプ(Nicholas Crisp)の職業も宝石商であった。
1740年にジェイムズの宝石商の奉公は終わるが、ジェイムズの父ジェイムズ・シニアは、1741年に亡くなっている。彼は遺産として、南洋の証券(South Sea Stock)や、お金を家族に残している。特に長男のエイブラハムには、祖父の不動産を相続させている。しかし次男のジェイムズには特別な相続は無い。その事より、おそらくジェイムズ・シニアは磁器の装飾工房で成功し、亡くなる前には既に、その工房を次男のジェイムズに引き継いでいたのではないかと思われる。
ジェイムズはおそらく父の事業を引き継ぎ、 1743年の20歳の時にソーホーのベーリック・ストリートに工房を移転させたのだろう。この後、結局1777年の廃業までの間、一度も移動せずにここで操業を続けていた。
様々な資料によると、ジェイムズのこのジャイルズ工房は、当初中国の輸入磁器やガラスに、流行の中国風の絵や、ロンドン風花絵を描いて転売していたが、 やがてイギリス国内で軟質磁器の製造が可能になると、1760年代の始め頃より、主としてウスター窯の製品(ブランクのある2級品)を買い取って、絵付けをして売る様になった。
また1767年には、ロンドンの最もファッショナブルなエリア、トラファルガー広場に繋がるクックスパー・ストリート(Cockspur Street)に販売店(warehouse)を開いて、小売業も行った。
但しこのお店の開店の2日後に、ウースター窯がすぐ近くのチャリング・クロスのスプリング・ガーデン(Spring Garden)の広大なショウルームに、ロンドンのシティにある販売店のストックを大量に移して販売するという広告を出している。ここではウスター窯との微妙な関係が垣間見えている。
元々軟質磁器の生産は歩留まりが悪く、絵付け前の焼成の段階で、沢山の不良品が発生する。ロンドンの絵付け工房は、これらの不良品を買い取ってくれる重要な存在であった。しかし一方で自社以上の素晴らしい絵付けをして、しかも低価格で売られると、肝心の自社の製品が売れなくなってしまう。軟質磁器窯は、そういうジレンマを抱えていた。