ヨーロッパでの磁器製作
 
16世紀、東洋磁器がヨーロッパ中に広がる中、その需要は供給を上回るようになった。
ヨーロッパ諸窯は、その需要に応えるべく、陶器で東洋磁器のコピーを製作するようになった。オランダやイギリスのデルフト焼きや、フランスのルーアンなどで東洋風の装飾が模倣され、一方では、磁器の製作が研究されだした。
当時のヨーロッパでは、焼き物で磁器のように光を通す半透明の素材は存在していなかった。
しかしこのような磁器の製法が、イベリア半島で栄えた、ポスト・ウマヤッド朝(アル・アンダルースのウマヤッド朝)のイスラム帝国よりヨーロッパ、とりわけマヨルカ島経由でイタリア半島に広まった「マヨルカ焼き」の製法に類似しているということは知られていたし、少なくとも轆轤で成型して窯で焼くということだけは分かっていた。マヨルカ焼きから発展させた、ガラスの一種を釉薬にし、そこへ酸化錫を混ぜて磁器のように白く見せた陶器、「ファイアンス」もすでに作られていた。しかしそれらの陶器も、半透明の性質は無かった。当時最も磁器に近い物は、ドイツで作られていたミルクグラスで、これはガラスの上に、酸化錫の釉薬を用いていた。磁器の様に白く、しかも半透明の透光性を持ち合わせていた。
そういう中で、初めてヨーロッパで(軟質)磁器を製作したのは16世紀のイタリアであった。当時イタリアはマヨリカ陶器、ファイアンスの生産で、ヨーロッパの窯業の中心地であった。
最初の磁器は、1575年、イタリアのフィレンツェ、トスカーナ大公のフランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco Ⅰ de’ Medici)によって、ピティ宮殿で作られた。パトロンのメディチ家の名前を取り、メディチ磁器と呼ばれた。現在60余りのメディチ磁器が現存しているが、その器型は、マヨリカ陶器に依り、装飾は東洋風のものが多く見られる。しかしその製法は、磁土(カオリンを充分含む土)を用いた真正の磁器ではなく、白土、白砂、フリット(Frit)という一種のガラス、それにワインの堆積物に塩を加えて焼成された、軟質磁器(中でもフリット磁器)の一種であった。メディチ家は、ペルシャとの貿易関係があり、ギリシア人か、トルコ人か、レヴァント人の援助を受けて焼成に成功したと考えられる。彼らは10世紀より中国磁器を模倣した、フリットウェア(Fritware)という白い陶器に精通していた。
メディチ磁器は、ぼやけた染付けのブルーの装飾が特徴的で、当時輸入されていた中国磁器を模倣していた。しかし1587年、大公の死とともに閉窯してしまう。
その後軟質磁器の製作は、17世紀のフランス(1673年ールーアン、1693年ーサンクルー・・・) に引き継がれ、硬質磁器の磁土がヨーロパ中に普及する18世紀の中頃以降まで続いた。
しかしこのような軟質磁器の生産は、当初はガラス質と、陶土の割合が微妙で、多くのロスを伴い、採算が合わない事が殆どであった。その為しばしば多くの王室等の財政的援助を必要とした。
そしてついに、18世紀に入り、ようやくヨーロッパにおいても始めて真正の磁器が焼成されるようになった。その偉業を成し遂げたのが、ドイツのザクセンにある、彼の有名なマイセン窯であった。
(その後の磁器の歴史は、各窯の説明を参照して下さい)