1747年、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximillian Ⅲ Joseph)と、その妻、ザクセン選帝侯・ポーランド王アウグストⅢ世の娘、マリア・アンナ・ゾフィア(Maria Anna Sophia)の庇護のもと、主任陶工のフランツ・イグナツ・ニーダーマイアー(Franz Ignaz Niedermeyer)は、ミュンヘンのノイデック(Neudeck in der Au)の狩猟の館で、磁器の製造実験を始めた。多くの実験を繰り返したが、1748年に至っても充分な実験成果が得られず、選帝侯は1749年に補助金の中止を命じた。
1751年、バイエルン科学アカデミーの創設者(1759年)であり、この窯の製造販売のスポンサーであったジークムント・フォン・ハイムハウゼン伯(Sigmund von Graf Haimhausen)が、この工場の監督から財務を担当し、1755年までに10,000フローリンもの補助金を拠出した。
当初は成功の見込みは難しいと思われたが、1755年、ヴィーン窯出身のアルカニストであり窯の設計士であるヨーゼフ・ヤーコプ・リングラー(Joseph Jakob Ringler)と協力者のヨハン・パウル・ルパート・ヘアテュル(Johann Paul Rupert Härtl)のおかげで、大規模な磁器の生産が出来る様になった。
尚重要な原料であるカオリンは、パッサウ(Passau)近郊から供給されている。
 
その後、1754年2月、ヴィーンの成形師、ヨーゼフ・ポンハウザー(Joseph Ponhauser)を雇用し、原型師フランツ・アントン・ブステリ(Franz Anton Bustelli)もこの年の11月から仕事を始めた。(彼はロココ風の多くのフィギュアを制作したが1763年、40歳で夭折している。)
リングラーは1757年にノイデックを去り1758年にルードヴィヒスブルクに向った。
1761年からニンフェンブアク城内に新しい磁器の製造工場が従業員住居と共に建設され、同年にニンフェンブアク窯は、ノイデックからそこに移転した。
ヘアテュルは、磁器の製造方法を文書化する事を拒み、結局ハイムハウゼン伯に解雇され、その後伯爵自身が窯の総監督に就任した。
その後1763年からはヨーゼフ・カール・フォン・リンプルン(Joseph Karl von Linprun)の総監督のもと、会社はこの時期に最も多くの収益を上げた。1765年には従業員187人を数え、芸術的には最も高いレヴェルに達していた。
しかし1771年には、再び会社は80,000フローリンの負債を抱えていた。
 
1777年、マクシミリアン3世・ヨーゼフが亡くなると、ファルツ(Pfarz)選帝侯カール・テオドア(Carl Theodor)がこの窯を引き継いだ。
しかしテオドアは1762年に買い取った、自ら経営するファルツのフランケンタール窯を重用し、その為に当時監督をしていた原型師主任のドミニクス・アウリチェク(Dominisk Auliczek)(ブステリの後継者)は、官僚の監視など、不当な扱いをされていた。1793年にハイムハウゼン公が亡くなり、アウリチェクもこの年に引退し、1797年からは、原型師主任にフランケンタールから移って来たヨハン・ペーター・メルヒオア(Johann Peter Melchior)が就任している。
(1767年にヘフストの原型師主任に就任したメルヒオアは、1770年にマインツ選帝侯の宮廷彫刻家、1779年からはフランケンタール窯の原型師主任に就いていたが、1793年に辞めて、1797年にニンフェンブアク窯の原型師主任になり新古典主義的なフィギュアを制作した。)
 
1799年にはフランケンタール窯がほぼ閉窯状態で1800年閉窯。何人かの職人がニンフェンブアク窯に雇用され、再びニンフェンブアク窯は活気を取り戻した。ファルツ選帝侯カール・テオドアは1800年に亡くなった。その際ミュンヘン市民は何日もそれを祝したと言われている。
1799年、後を継いだのはバイエルン選帝侯マクシミリアン4世(Maximillian Ⅳ)で、彼は1800年にフランケンタール窯の閉窯を布告している。
またナポレオン戦争後に神聖ローマ帝国が崩壊し、1806年に初代バイエルン王国の国王、マクシミリアン1世(Maximillian Ⅰ)として即位している。
 
結局ニンフェンブアク窯は、1862年まで国家に所有されていたが、それ以降は民間に移管され、現在に至っている。この窯では、フランケンタール窯のモウルドを引き継ぎ、それらは民営化後の窯で一時復刻されている(フランケンタールの窯印と、制作年が入っている)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Nymphenburg(1747-Heute)       Germany