Sevres(1756-Present)
 
Circa 1774
 
Tasse à glace                                   Pâte : Porcelaine dure
アイスカップ          素地   硬質磁器
Peinture : Le Service des Asturies
ル・セルヴィーズデュザステュリー(アステュリー・セルヴィス)
Hauteur : 6.0cm          Diamétre : 6.0cm
 
Marques peintes : deux L en carmin              Lettre date :  V en bleu / 1774
 
       Peintres : de paysages en bleu / A.V.Vieillard(1751-1790)
                        風景画の絵付け師/ヴィエイヤール
                       : de fleurs en gris / Buteux jeune(1773-1790)
       花絵の絵付け師/アントワーヌ・ビュトウ・ジュニア
                       : doreur en carmin / L.F.Lécot(1773-1802)
                          金彩師/レコー
 
Marques en creux :  al
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<はじめに>
高さ6cmのこの小さなカップは、ソルベなどのデザートを入れて、それ様のトレイに幾つかを一度に載せて、テーブルに運ばれた。
ハンドルはロココ風で、典型的なCスクロール。窓絵の風景画は狩りの模様を描いており、全体に散りばめられた薔薇の装飾は、多彩な金彩と調和して豪華に作品を彩っている。脚の部分に薔薇と金彩で、C、Lと、イニシャルが入れられている。
al、の刻印が入れられている。
 
因みにこの時代は、ロココ装飾を極めたポンパデュール侯爵夫人が1764年に亡くなり、しばらくの移行期(1765年から1770年)を経て、いよいよ新古典主義に移行しようとする時期に当たる。
しかし余りにも強烈なロココ時代を経験したセーヴル窯は、この作品に見られる様に、スクロールハンドルの様なロココの残照を引きずり、例えばこの時期に最も素晴らしい新古典主義的な作品を制作したヴィーン窯などと較べると、如何にも中途半端な新古典主義の印象を受ける事は否めない。
またこのような傾向が、セーヴル窯の影響を強く受けたイギリスのこの時代の諸窯の作品にも見られる事は非常に興味深い。
 
 
このアイスカップは、フランス王室からスペイン王室に贈られた、特別な食器セットの一部である。
アステュリー・セルヴィスと呼ばれるこの食器セットは、1774年、フランス国王ルイ15世(Louis XV)が、同じブルボン家のスペイン王カルロス3世(Carlos Ⅲ)の息子であるアステュリア皇太子(Principe de Asturias)(のちのカルロス4世)と、ルイ15世の孫娘で、カルロス3世の姪にあたり、アステュリア皇太子の三つ年下の従妹であるマリア・ルイサ・デ・パルマ(Maria Luisa de Parma)との結婚(1765年)を祝してセーヴル窯に発注したものである。
(因にザクセン・アウグスト強王の孫娘は、このスペイン王カルロス3世に嫁ぎ、もう一人の孫娘はフランス王ルイ15世の息子ドンファンに嫁いでおり、ルイ16世の母に当たる。したがってカルロス4世と、ルイ16世は、ザクセンの血を引く従兄弟どうしである。フランス革命のあと、ルイ16世が処刑されたときのカルロス4世のショックは相当のものだったと言われている。)
 
塔の装飾はカスティーリャの紋章を表している。イニシャルの装飾は、 カルロスのCと、ルイサのLである。また窓絵の風景画は、ザクセンの血を引き、やや凡庸であった後のカルロス4世の唯一の趣味である狩りの場面を描いている。
 
 
<このセルヴィスの背景>
18世紀のフランスは、金や銀が不足し、ルイ14世の死後、多大な国の負債が顕在化し、世紀の始めはジョン・ローに改革を委ねたが失敗。その後の度重なる戦争で、ますます経済的に危機的状態にあった。
サロンを開いてフランスのロココ芸術を推進していたポンパデュール侯爵夫人は、オーストリア継承戦争での敵国であったオーストリアのマリア・テレジア(Maria Theresia)と手を組み、今やザクセンを脅かして急成長するプロイセンのフリードリヒ大王(Friedrich der Große)との間で七年戦争を闘い、結局敗戦して責任を取って失脚、失意の中で1763年に亡くなった。
時代はポンペイ遺跡の発掘を契機に古代ローマの文化が見直され、つかの間のロココから再び古典主義に向っていた(ルネサンスがギリシアだったのに対して今回はローマ文化の再興であった)。
 
ポンパデュール侯爵夫人の肝入りで国費を投入して操業していたセーヴル窯は、まさに国威の象徴であり、ヨーロッパ最高水準で、最先端の芸術作品を生み出していた。
七年戦争にあたっては、同盟関係が逆転し、近隣国との関係性の証しとして、ポンパデュール侯爵夫人は各国にセーヴル磁器を贈っていた。まさに「白い外交」(White Diplomacy)と呼ばれる所以である。
1756年に戦争が始まると、1758年に中立国のデンマークのフレデリック5世(Frederik V)に食器セットを贈り、1759年には同盟の証しにオーストリアのマリア・テレジアに、1760年には中立国維持を求めて、ファルツ選帝侯のカール・テオドア(Karl Theodor)にも鳥の絵の装飾の食器セットを贈っている。
果たしてこの習慣はポンパデュール侯爵夫人の死後も継承され、1768年にはデンマークのクリスティアン7世(Christian Ⅶ)に、1770年にはスウェーデンのグスタフ3世(Gustav Ⅲ)に、そして1770年、オーストリアからマリー・アントワネット(Marie Antoinette)がドンファン亡き後の王位継承者である皇太子ルイ(Luis)と結婚すると、1773年には、このアステュリー・セルヴィスに類似した食器セットがマリー・アントワネットの姉で、ナポリ・シチリア王のフェルディナンド4世(Ferdinando Ⅳ)(ナポリ窯を創設)に嫁いだ、マリア・カロリーナ・ルイーザ・デ・ナポリ(Maria Carolina Luisa de Napoli)の出産祝いに贈られている。このセルヴィスもカロリーナ・ルイーザのイニシャル、C、Lが装飾として入れられている。ブルボン家の結束を固める政策の中(パクテュ・デュ・ファミーユ/Pacte de Famille)で更に1774年、この作品を含むセルヴィスがルイ15世によって発注された。同盟関係は、当時フランス、スペイン、パルマ、ナポリとシチリア、ザクセンからオーストリアまで広がり、各国はローマカトリックへの信仰でも共通していた。
 
<再びこの作品について>
このアイスカップは1774年に制作されているが、最初のこの食器セットがマドリッドのスペイン王室(エル・エスコリアール/El Escorialの宮廷)に届いたのは1775年、すでに送り主のルイ15世が亡くなった後であった。
1775年、3月10日、219ピースのセルヴィスが贈られ、アイスカップは20客(高さは6cmか7cm)が含まれている(記録では一客の価格が36リーヴル/livres、当時の普通の年収が100−300リーヴル)。
アイスカップのトレイは6枚含まれ、おそらくカップを載せる数は厳密なものではなかったと思われる。
そしてこのセルヴィスは継続的にスペインから追加注文があり、その発注はフランス革命の後の1791年まで続いている。贈られた数は全部で438ピースに上る。
一方スペイン宮廷には、ナポリ時代にカルロス3世が設立したカポディモンテ窯をそのまま移設したブエン・レティーロ窯があり、当時まだ軟質磁器しか焼けなかったこの窯で、このアステュリー・セルヴィスのコピーが制作された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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